弁護士会の読書

※本欄の記述はあくまで会員の個人的意見です。

2006年8月 9日

大国ロシアになぜ勝ったのか

著者:偕行社日露戦史刊行会、出版社:芙蓉書房出版
 日露戦争当時、ロシア軍は機関銃をもっていたが、日本軍はもっていなくて、ロシア軍の機関銃に、ロシア軍の機関銃に悩まされたという説があるが、それは間違いだ。日露戦争は、双方が歩兵用火器として機関銃を本格的に使用した世界初の戦いとなった。
 日本は明治23年に水冷式のマキシム機関銃を購入し、明治32年からは空冷式のホチキス機関銃に切り替えて量産した。ただし、たびたび故障し、攻撃での用法が確立されていなかった。
 日露戦争の開戦前に中国の地理について、日本軍はよく分かっていなかった。そして、ロシア製の地図は日本軍の地図に比べて非常に正確なものであった。それで、日本軍がロシア製の地図を初戦ころの戦闘で入手しえたのが大きな助けとなった。
 ロシア軍はシベリア鉄道を利用してハルピンまでのべ129万5000人の兵員を輸送した。馬匹は23万頭、物資は950万トン。これは日本軍の予測をはるかに上まわった。
 日本軍(陸軍)が、対ロシア戦に備えて兵站の研究を始めたのは、開戦半年前の明治36年(1903年)夏のことだった。
 日露戦争に参加した将兵95万人のうち27%の25万人が輜重(しちょう)輸卒だった。補給品の糧秣の85%は追送、15%が現地調達。馬は将兵の5分の2だったが、消費は全将兵の倍を要し、馬草の輸送には多大の容積を必要とした。
 日清戦争のときの将兵は草鞋(わらじ)をはいていたが、日露戦争では、短靴と脚絆(きゃはん)だった。
 韓国には、当時の日本が感じていたほどのロシアに対する危機感はなく、それを日本と共有することもなかった。
 日本軍は8万人のロシア人捕虜を得、ロシア軍は200人の日本人捕虜を得た。ロシア人捕虜については、糧食費を日本兵士の倍額近く出し、しかも調理を自由にさせたので、捕虜たちは満足していた。日本に帰ってきた捕虜を冷遇したのは軍ではなく、郷里の人々だった。勝利に酔い、忠勇美談が喧伝されるなかにあって、帰還捕虜は白眼視された。
 日露戦争にのぞんだ日本陸軍の将帥には、戊辰戦争、西南戦争、日清戦争を戦い抜いてきた経験があり、胆力を備えていた者が多かった。このうえ、士官学校、陸大卒業者が各級の指揮官、司令部参謀を固め、中堅将校以上にも日清戦争を経験した者が多くいた。
 ロシア陸軍の将兵は主として世襲貴族から補充され(全体で5割)、多くの参謀将校、将官、士官は軍事教育を十分受けておらず、指揮経験すらなかった。
 旅順要塞の攻略をめぐっては、死傷者5万9400人という犠牲の大きさが大きな問題になっている。情報収集と攻撃準備がきわめて不十分であったことによる。
 日本軍は、ロシア軍の徹底した防諜体制によって、旅順要塞の実態をほとんど知らなかった。情報だけでなく、要塞攻撃法の研究も不十分で、要塞攻撃用の火砲と弾薬も準備不足であり、攻城材料である対壕器具や坑道用具の調達計画もまったく無視されていた。
 旅順の戦いは、203高地を占領したあとも1ヶ月ほど続いている。
 この本は、第一次世界大戦の要塞攻略戦として名高いベルダンの戦闘において、ドーモン堡塁の争奪戦だけで、ドイツ軍の損耗は28万人、フランス軍にいたっては44万人にのぼっていることを忘れてはならないと指摘しています。戦争に明け暮れていた西欧列強の人々にとって要塞攻略の困難さを熟知していたからこそ、6万人者死傷者を出しながらも旅順要塞を攻略した乃木将軍が有名になったとしています。うーむ、なるほど、そうなんですか・・・。
 この戦いによって、乃木という人は悪魔の権化か、戦いの魔神のように思われ、乃木軍の兵は血の鬼か火の鬼で、ただ死を求めて、敵と組み討ちしなければ止まらないものとまで恐れられていた。
 この本は、最後に、司馬遼太郎が「坂の上の雲」のあとがきで、「日露戦史」を痛烈に批判していることに反論するコメントを書いています。「氏の小説家としての主観的判断によるもので公正ではない」という穏やかな言い方ですが、きっぱり批判していることは見逃せません。

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