弁護士会の読書

※本欄の記述はあくまで会員の個人的意見です。

2006年6月23日

駆込寺と村社会

著者:佐藤孝之、出版社:吉川弘文館
 離縁(今の離婚)のための駆込寺といえば、鎌倉の東慶寺と上野国の満徳寺が有名です。この二寺は幕府から縁切寺(えんきりでら)として公認されていました。しかし、縁切寺は、決してこの二寺だけではありませんでした。
 駆け落ち(結婚)のときにも縁切りのときにも、いずれも寺院への駆け込みがありました。戦国時代には寺院に駆け込むことを「山林に走り入る」と言われていました。そして、江戸時代には、村や町の寺院は、すべて駆込寺だった、というのです。いやー、これには私も驚いてしまいました。なーんだ、そうだったのか・・・、という感じです。
 寺院に人々が駆け込むとき、それには実にさまざまな意味がありました。第一に、謝罪・謹慎の意を表明するということです。いわば詫びの作法のひとつでした。二つ目に、裏を返せば、処罰・制裁でもあったということです。たとえば出火したとき、火元は一定期間の入寺が罰として課されていました。第三に、保護・救済を求めて、また調停を求めるというものです。
 博奕(ばくち)、喧嘩口論、わがまま、不届、理不尽、不埒(ふらち)などと称される不法・違法・不行跡があったとき、当人は非を認めて寺院に駆込、寺院の関係者を仲介者として詫びる行為は入寺でした。
 男女が駆け込む先は、寺院ばかりではなく、神社や神主方ということもありました。
 犯罪を犯した者が寺院へ駆け込んだときには、入寺とは言わず、駆込ないし駆入などと呼ばれて区別されていました。たとえば、入寺したことで赦免する犯罪を出火のときに限定しました。それ以外の犯罪については、入寺による赦免を認めなくなりました。
 寺社や地域の有力者に対して、結婚・離婚を目的とする駆込が多発するようになりました。ある有力者宅には、1年間で離縁46件、駆落8件、連れだし・嫁盗み5件などの駆け込みがあったそうです。
 入寺は、すぐれて江戸時代的な営みだった。明治に入ってからは、明治国家の形成とともに姿を消していった。著者は、こう述べています。
 江戸時代の人々の生活について、目を洗われる気がしました。

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