弁護士会の読書

※本欄の記述はあくまで会員の個人的意見です。

2006年5月31日

スターリングラード

著者:アントニー・ビーヴァー、出版社:朝日新聞社
 実にすさまじい戦場です。ヒトラーとスターリンの非情さが、これでもかこれでもかと繰り返し描かれています。それでも幸いなことにファシスト・ナチスは敗れてしまいました。また、暴虐・冷酷なスターリンの誤った作戦指導にもかかわらず、無数のロシア人が祖国ロシアに生命を捧げ、祖国を救いました。
 この本のすごいところは、スターリングラード戦に関わった将兵の日記や手紙を数多く紹介し、戦場の模様が刻明に再現されているところです。もちろん、参加者の戦後の回想録や手記からも引用されているのですが、ドイツ兵の手記や家族に宛てた手紙がソ連軍の手に落ち、記録庫に眠っていたものが日の目を見ているのです。捕虜の尋問記録も活用されています。ですから、当時の前線兵士たちの心理状況が手にとるように分かります。両軍とも、敵軍の内情を知るため、捕虜の尋問結果には相当の注意を払ったようです。
 スターリングラードでは、5万人をこえるソ連市民がナチスドイツ軍の軍服を着てソ連軍と戦った。むりやりというより、大半は志願者である。これは、今のロシアでもタブーとなっている。これは、それほどスターリンの懲罰部隊はひどかったということを意味している。最前線で少しでもドイツ軍への攻撃をためらうものは背後から射殺された。スターリンは臆病者はその場で射殺するという命令を発した。退却を許可した指揮官は階級章を剥奪され、懲罰中隊に入れられた。この懲罰中隊は、攻撃中の地雷撤去などの自殺行為に近い作業につかされる。42万人以上の赤軍兵士がこれで死んだ。臆病者・脱走兵を射殺するためNKVD特別局がつくられた。ドイツ軍兵士は、部下の命を実に粗末に扱う赤軍司令官の態度に絶えず驚かされた。
 スターリンの誤ちはあまりにも大きい。1941年6月、ヒトラーはソ連へ侵攻し、バルバロッサ作戦を始動させた。モスクワでは、スターリンが、それを知らせる緊急通知をすべて却下していた。「挑発」に乗ってはいけないと命令したのだ。ドイツ軍は、戦車3350両、野戦砲7000門、航空機2000機。そのうえ、フランス陸軍の車両をつかって輸送力を高めた。トラックの70%はフランスからもってきていた。また、60万頭の馬もつかった。
 ドイツ軍の侵攻から5日間で、30万人をこえるソ連赤軍兵士が包囲され、2500両の戦車が破壊・捕獲されてしまった。2000機の航空機も破壊された。
 スターリンの犯した誤りは大きかったが、その個人的名声は、一般大衆の政治的無知のおかげで助かった。スターリンのせいでソ連軍が敗れたとは思わなかったのだ。しかし、最初の3週間で、ソ連が失った戦車は3500両。航空機6000機、赤軍の兵士200万人。ドイツ軍の捕虜となったソ連赤軍兵士570万人のうち300万人が虐殺によってドイツの収容所で死んだ。アウシュビッツで1941年9月3日、600人のソ連軍捕虜がチクロンBをつかったガス室で殺された。最初の実験対象とされたのだ。
 ドイツ空軍による1942年8月のスターリングラード大空襲は、出撃回数1600回、投下した爆弾1000トン。損害は3機のみ。当時のスターリングラードの人口は60万人で、わずか1週間で4万人もの市民が殺された。
 反撃にうつったソ連軍は怒濤のごとくT34戦車と武器貸与政策によるアメリカの戦車をくり出した。アメリカ製の戦車は車高が高く、装甲板が薄いので、ドイツ軍から簡単に撃破された。ドイツ軍は戦闘中に3000人のスターリングラード市民を処刑し、6万人もの市民を強制労働につかせるためドイツ本国へ輸送した。
 ドイツ軍の第一線部隊には、その兵力の4分の1位以上にあたる5万人ものロシア補助兵がいた。その数は次第に増え、7万人にのぼるとみられている。ヒーヴィと呼ばれるドイツ軍に所属するロシア兵の多くは志願した地元住民や脱走した赤軍兵士たちで、ドイツ兵なみに厚遇された。
 映画「スターリングラード」に出てくる狙撃兵ザイツェフも紹介されています。ドイツ兵を149人も射殺したのですが、さらに224人殺した狙撃兵が別にいました。
 包囲されはじめたドイツ兵のうち、17歳から22歳という最年少の兵士がもっとも病気にかかりやすく、死者の55%を占めていた。太っていた兵士がやせた兵士より弱く、包囲戦のなかで、いち早く死んでいったことも明らかにされています。
 スターリンには、ヒトラーと違って、恥という観念がなかった。大失敗を犯したあと、いささかも取りすまさず、ジューコフの反撃作戦を承認した。
 ドイツが毎月500両の戦車を生産していたとき、ソ連は月平均2200両の戦車を生産した。航空機も、年に9600機から1万5800機に生産を増やした。ヒトラーは、このソ連の生産能力を信じることができなかった。ヒトラーがドイツ女性を工場で働かせるという考えを容認しなかったとき、ソ連では何万人もの女性が戦車の生産現場にいた。
 スターリンの反撃作戦は厳重に秘匿してすすめられた。100万を超える兵が前線に終結した。
 1942年11月。スターリングラードのドイツ軍はソ連赤軍によって包囲された。ヒトラーはそのニュースをドイツ国民に知らせないという厳しい指示を出した。しかし、ドイツ国民にはすぐにひそかに知れわたった。12月、スターリングラードに本格的な冬将軍が到来する。ドイツ軍は十分な冬支度ができていなかった。
 包囲されたドイツ第六軍は使者をヒトラーへ送った。軍部内の反ヒトラー運動への使者でもあった。ナチス・ドイツ軍のなかにも従来のドイツ軍の考え方に立ち、反ヒトラーの動きもあったことが分かります。これが後に、ヒトラー暗殺事件へつながっていきます。
 しかし、ヒトラーは第六軍の撤退も降伏も認めない。ヒトラーは、上級将校全員の集団自決を期待していた。ドイツ第六軍の指揮官パウルスは最後の瞬間に元帥へ昇進した。1943年1月31日、パウルスは降伏した。この時点でも、ドイツ軍に所属していた多くのヒーヴィ(ロシア人)はドイツ軍に忠実だった。
 ドイツ軍のパウルス元帥以下は、部下の将兵たちと異なり栄養状態も良く、そのまま特別待遇を受けた。スターリンは、将軍22人を含む9万1000人の捕虜を得た。
 スターリングラードでのドイツ軍壊滅のあと、ミュンヘンの学生グループが「白バラ」運動と呼ばれる抵抗運動をくり広げたが、すぐに逮捕され、ゾフィー・ショルと兄のハンスは死刑判決を受けて斬首された。
 ヒトラーは、スターリングラードの壊滅のあとは、テーブルについても以前のように長広告をふるわなくなり、一人で食事をするようになった。ひどく変わった。左手が震え、背中は曲がり、じっと凝視するが、飛び出した目には以前のような輝きはない。頬に赤い斑点が浮かんでいた。
 スターリングラードでの勝利で、ソ連の士気は大いに高まった。スターリンにはソ連元帥に任命された。1941年のスターリンによる惨禍は、あたかもスターリンがすべて考案した巧妙な計画の一部であるかに粉飾された。スターリンは、今や「ソ連人民の偉大なる指導者」「我らを勝利に導いた天才」とほめたたえられる存在になった。
 ドイツ将兵9万1000人の捕虜の半数は春を待たずに死亡した。
 ドイツ軍の死亡率にはきわだった違いがある。兵士と下士官の95%が戦死、下級将校の55%も戦死。ところが、上級将校の死亡率はたった5%。ええっ、信じられませんね。
 ロシア人にとってドイツとの戦争によって900万人に近い赤軍兵士が戦死し、
1800万人が負傷した。ドイツ軍の捕虜となった450万人の赤軍兵士のうち生還したのは180万人のみ。ソ連市民の死傷者は1800万人、ソ連の戦争犠牲者は2600万人をこえる。これはドイツのそれの5倍以上。
 1945年から、スターリングラードのドイツ兵捕虜3000人がソ連によって釈放されていった。最後は1955年9月。パウルスは1957年にドレスデンで死亡。
 実によく調べてある本です。読み終えると、精神的にぐったり疲れてしまいました。戦争の悲惨さ、馬鹿馬鹿しさが本当によく分かります。前線の兵士は自主的に考える力を奪われ、指揮官は自己の保身を真っ先に考える世界なのです。これは、軍隊については古今東西とこも変わらぬ真理です。前に紹介した「ベルリン」と同じ著者による本で、読みごたえがあります。私は3日間、もってまわって読み通しました。

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