弁護士会の読書

※本欄の記述はあくまで会員の個人的意見です。

2006年5月24日

女帝の世紀

著者:仁藤敦史、出版社:角川選書
 明治来の皇室典範は、必ずしも日本の歴史と伝統を正確に反映するものではない。それは8世紀初頭の大宝令段階から女帝に関する規定が存在していたのを無視している。過去の女帝は単なる「中継ぎ」のための君主であるという、女帝の即位を認めない政治的な立場から恣意的な歴史解釈がなされている。
 7、8世紀には、7世紀と8世紀になぜ女帝が多かったのかという問いを著者は投げかけ、それを解明しています。
 この当時は、8代6人の女帝が即位している。7、8世紀は「女帝の世紀」と称されるのも当然のこと。皇后即位の習慣があったという説を肯定的に紹介しています。
 ところが、奈良時代まで皇室に女帝が次々に出ているのと対照的に、貴族層では一件の例外もなく女性の族長は存在していない。これは不思議なことです。
 奈良時代に僧の道鏡が即位する可能性がありました。孝謙上皇(女帝)が称徳天皇として重祚(ちょうそ)した(再び天皇になった)あと、道鏡は天皇なみの待遇である法王に就任し、天皇への即位をうかがいました。これを和気清麻呂が妨げたことはあまりに有名です。では、なぜ一介の僧にすぎない道鏡が天皇になりそうになったのか。ここを著者は解明しています。
 道鏡は女帝の子ではなく、女帝の夫として、先の聖武天皇の「我が子」に擬制的に位置づけられることによって即位の可能性が生じた。このころは、臣下の即位はタブーではなかった。むしろ、この事件以降にタブーとなったのだ。鋭い指摘だと思います。
 継体大王は前王の直系ではありません。継体大王の前には複数の王系が存在し、継体朝から王朝の血統が固定化して王族が形成された。つまり、王系の交替が常態であった継体朝以前の段階から、欽明系王統が五代連続することにより、欽明を祖とする世襲王権の観念が生じた。このように、日本は古来から、万世一系の天皇が支配していたというのは真赤な嘘なのです。天皇(当時は大王)になるべく有力氏族が果てしない殺しあいまでしていたのが実態です。日本人が、むしろ好戦的な民族だったことは第二次大戦をみれば分かるとおりです。小泉なんかにごまかされてはいけません。
 大王(当時は天皇とは言いません)即位の条件としては年齢が大きな要素であり、高齢であることが、むしろ有利だった。20代では即位の適齢期とされず、60代の方が有利となった。大王即位の適齢期は40歳前後だった。そのような適齢期の人間がいないときには、大后が王族の女性尊長として即位した。執政能力が群臣に認められると、女帝が即位した。したがって、女帝の資質・統治能力が男帝に対して劣っているとはいえない。
 有名な長屋王の変についての著者の指摘には、さすがと感心してしまいました。長屋王邸の跡はスーパーダイエーがたっていましたが、そこから大量の木簡が出土して、その分析がすすんでいます。長屋王は王権強化策に反対する畿内貴族層の利害を代弁しており、それを抑えつけるための王権によるクーデターではなかったかと著者は考えています。
 長屋王家の巨大な家産を背景とした藤原家と長屋王との政策的な対立があり、そこで支配層が合意してなした長屋王打倒のクーデターだった、というのです。
 日本史における権力者内部の政争は、今の自民党と民主党だけではないのです。

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