弁護士会の読書

※本欄の記述はあくまで会員の個人的意見です。

2006年5月18日

喧嘩両成敗

著者:清水克行、出版社:講談社選書メチエ
 実に面白い本です。まだ35歳の若手学者の本ですが、その分析力にはほとほと感心してしまいました。このくらいの分析力を持てたらなあと長嘆息するばかりです。私も人並みに年齢(とし)だけはとったのですが、とてもかないません。
 日本人は昔から争いごとを好まない。和をもって貴しとする民族だから・・・。なんていうのは真赤な嘘です。ところが聖徳太子(その実在も疑われています)の十七条憲法を額面どおりに受けとり、それが定着しているのが日本人だと誤解している人のなんと多いことか・・・。そもそも十七条憲法に、和をもっと大切にせよと書かれたのは、当時の日本であまりに争いごとが多かったからです。同じように、十七条憲法は、裁判があまりに多いから、ほどほどにしなさいとも言っているのです。ご存知でしたか。ぜひ一度、十七条憲法の全文を読んでみてください。といっても、全文とそれを解説した本って、なぜか驚くほど少ないんですよ・・・。
 それはともかく、日本人は昔から執念深かったようです。16世紀に日本にやってきた有名な宣教師ヴァリニャーノは、日本人の恐るべき執念深さを次のように本国に報告しているそうです。
 日本人は感情をあらわすことに大変慎み深く、胸中に抱く感情を外部に示さず、憤怒の情を抑えつけているので、怒りを発するのは珍しい。お互いに残忍な敵であっても、表面上は明るく儀礼的で鄭重に装う。時節が到来して勝てるようになるまで堪え忍ぶのだ。
 果たして陰湿なのは室町時代の日本人だけなのか。著者は中世日本人の激情的で執念深い厄介な気質は、現代日本人にも受け継がれているのではないかと指摘しています。私も、それはあたっている気がします。
 現在、中世社会では必ずしも敵討(かたきうち)が違法行為とはされていなかったことが明らかにされている。ただし、本当は親の敵(かたき)でもないのに、自分が殺した相手を親敵だと言いはって罪を逃れようとする者も当時いたようだ。
 間男を本夫が殺害するという行為自体は、当事者間では何ら違法という認識はなかった。むしろ、そうした法習慣を禁じようとした鎌倉幕府の方が非常識なものと受けとめられていた。敵から危害を加えられた者は、公的裁判に訴えるのも、自力救済に走るのも、その選択はまったく自由だった。復讐は公認されていたというより、むしろ放任されていた。
 室町時代、人を殺した人間がある人の屋敷に逃げこんできたとき、「憑む(頼む)」と言えば、頼まれた側はその人間の主人として保護する義務が生じた。
 鎌倉から南北朝までのあいだ、墓所(ぼしょ)の法理というものがあった。殺された人の属した宗教集団が犯行現場ないし加害者の権益地である広大な土地を、被害者の墓所として加害者側に請求するという宗教的慣行があった。
 室町時代の大名にとって、政治的な失脚は、その政治力や発言力を失うだけでなく、生命・財産・すべてを奪われかねない深刻な重大事だった。そして、京都に住む一般の都市民衆は、度重なる政争のなかで、ただ逃げ惑っていたり、傍観していたわけではなく、ここを稼ぎ場と、たくましく生き抜いていた。
 流罪途中に、流人が殺害されることは多く、当時の人々は流罪は死刑と同じように考えていた。なぜか・・・。
 流人を途中で殺害する行為は、落武者狩りや没落大名の屋形からの財産掠奪と同様、ほとんど慣行として社会に許容されていた。つまり、法の保護を失った人間に対して、殺害、刃傷、恥辱、横難そのほか、いかなる危害を加えようと、何ら問題にならなかった。
 流罪というのは、室町殿にとって堂々と処刑するのははばかられるときの刑。建前上は死刑でないとしつつ、実質的に死刑とする方策として流罪とされたのではないか・・・。
 中世に取得時効が認められていた。それは20年だった。鎌倉幕府の御成敗式目第8条に、知行(ちぎょう)年紀法という有名な条文がある。そこでは、たとえ不法な占拠であっても、その土地での20年以上にわたる当知行(とうちぎょう)つまり用益事実が認められると、その者を正式な土地の支配者として認めることが規定されていた。
 折中(せっちゅう)の法というのがあった。足して二で割る解決方式のことである。中世社会では、最善の策として奨励される重要な法思想だった。たとえば、降参半分(こうさんはんぶん)の法というのもあった。降参した敵の所領については、半分だけは没収せずに残してやるというもの。
 中世社会に生きる人々にとっては、真実や善悪の究明などはどうでもよく、むしろ紛争によって失われた社会秩序をもとの状態に戻すことに最大の価値を求めていた。衡平感覚や相殺主義に細心の配慮を払っていた。
 解死人(げしにん)と呼ばれる謝罪の意を表す人間を差し出す紛争解決慣行があった。その解死人は相手に行ったら殺される危険もあったが、原則としてそのまま解放されることになっていた。下手人は犯罪の実行者、死をまぬがれる解死人そして、派遣されるだけという下使人となっていった。
 喧嘩両成敗と裁判というのは、本質的に相矛盾するもの。喧嘩両成敗は戦時ないし準戦時の特別立法であって、平時の法令ではなかった。戦国大名にしても、織田・豊臣政権にしても、また江戸幕府においても、最終的な目標は喧嘩両成敗なんかではなく、公正な裁判の実現にあった。これによって自らの支配権を公的なものに高めることを目ざした。なぜなら、喧嘩両成敗は、権力主体からすると弱さの表現でしかなかった。むしろ、喧嘩両成敗法を積極的に普及させ、天下の大法(一般的な法習慣)にまで高めていったのは、公権力の側ではなく、一般の武士や庶民たちだった。
 この本を読むと、いかに日本人が昔からケンカ(争闘)を好きだったか、いくつもの実例が紹介されていて、驚くほどです。こんな事実を知らずに、日本人は昔から平和を好んでいた民族だなんて言わないようにしましょう。日清・日露戦争そして第二次世界大戦を起こしたのは、私たちの祖先の日本人だったのは歴史的な事実なのです。これは自虐史観なんていうものではありません。

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