弁護士会の読書

※本欄の記述はあくまで会員の個人的意見です。

2006年4月17日

チンギス・カン

著者:白石典之、出版社:中公新書
 モンゴル帝国が誕生して800年になるそうです。1206年、モンゴル高原の諸部族がチンギス・カンのもとに統一されました。
 カンとは、草原地帯に暮らしていたトルコ系、モンゴル遊牧民族が用いていた称号で、国の王や部族の長という意味。ハーンは、唯一無二の君主のことで、カンよりもランクの高い、遊牧民族を統合する最高位の者の称号。
 チンギス・カンの本名はテムジン。テムジンは、生きているあいだはカンと呼ばれており、ハーンと呼ばれるようになったのは、死んでかなりたってからのこと。ハーン(カアン)と呼ばれたのは第二のオゴタイ(ウゲデイ)と第四代のモンケ以降の君主である。そこで、この本では、チンギス・ハーンではなく、チンギス・カンとしています。
 テムジンとは、当時のモンゴル語で鍛冶屋を意味する。目に火あり、面に光ありと形容される、利発な少年だった。チンギス・カンは、その名のとおり鉄なくしては語れない。鉄と交通と後方支援。この3つの確保と連携。それがチンギス・カンの勝利の方程式だった。
 モンゴル時代は末子相続制というけれど、末子以外はそれぞれ独立に際して親からもらっている。したがって、末子が親の全財産を自動的に引き継ぐというものではなかった。チンギス・カンについても同じ。
 モンゴル軍の基本的な作戦方式は無血開城。目的はオアシス諸都市を接収し、その経済的繁栄を、そのまま手に入れることにあった。インフラも人的資源も、できれば無傷のまま残しておきたかった。そのため、降伏した都市では住民の安全を保障し、従来の体制を維持した。宗教に対しては寛容な態度をとった。しかし、抗戦する都市に対しては容赦ない攻撃をおこない、殲滅して周囲への見せしめとした。無駄な抵抗だと悟らせるためだ。
 チンギス・カンには数多くの后妃がいた。「元史」には39人の名前が紹介されている。彼女たちの多くは戦利品として手に入れたもの。当時、敵の大将の妻を奪うというのが、一種の勝利宣言だった。
 遊牧民は牧草地を荒らす行為として、土地を掘ることを忌み嫌う。現在の人は、世界征服者のチンギス・カンの墓ならば「明の十三陵」のような巨大な地下宮殿があるはずだと考えがち。しかし、文献資料をみるかぎりでは、柩と副葬品がおさまる程度墓穴に過ぎなかったようだ。チンギス・カンの墓は、その死が秘せられたように、墓所造営の当時から位置が分からないような手段がとられた。墓暴きにあい、永遠の眠りを妨げられるのを防ぐためだ。
 著者はチンギス・カンの墓所は、アウラガ遺跡から12キロ圏内にあると推定しています。それでも、東京23区内にあるというほどの広さではあるのですが・・・。新聞にのりましたから、私もついに発見されたのかと思ってしまいました。
 ただ、著者はチンギス・カンの墓所の探査を当面しないとしています。それは経済的な理由のほかに、モンゴル国民の感情に配慮してのことです。たしかにそうですよね。日本の天皇陵をアメリカ人がずけずけと発掘しはじめたら、あまりいい気はしませんからね。
 私も「明の十三陵」を見学したことがあります。まさしく地下宮殿でした。すごく奥深いのです。この本を読むまでモンゴル草原の地下のどこかに、チンギス・カンの墓所として壮大な宮殿があると想像していましたが、どうやら違ったようです。秦の始皇帝の墓所は今も発掘が続いています。あの有名な兵馬俑もまだ全貌が判明しているわけではありません。中国大陸のスケールの大きさには、いつも感嘆させられます。

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