弁護士会の読書

※本欄の記述はあくまで会員の個人的意見です。

2006年4月 7日

平泉への道

著者:工藤雅樹、出版社:雄山閣
 「みちのく」とは道奥(みちのおく)国からきた言葉。陸奥国は、もと道奥国だった。
 平泉の中尊寺には2回行ったことがあります。平泉藤原氏が栄えていた地であることを実感しました。
 平泉の栄華は砂金によって支えられていた。もう一つの特産は馬。
 平泉三代の繁栄も、源義経が逃げこみ、源頼朝が追討の大軍で迫ったときに終わりました。
 ところで、この本で坂上田村麻呂の東北攻略に対して勇敢に戦った蝦夷陣営を描いた高橋克彦「火怨」(講談社)の史実を知ることができました。「火怨」は手に汗にぎる面白さでしたので、その歴史的な背景を知りたいと思っていましたところ、この本によって詳細を知ることができました。
 朝廷は東北攻略のために大軍を4回派遣した。1回目は、征討軍は数万の兵士を動員したものの蝦夷側と対決できず、征討軍の最高責任者は更迭されてしまった。
 2回目は朝廷側も周到な準備を重ね、5万の軍勢が多賀城に終結して賊地に分け入ったが、衣川の戦いで大敗した。政府軍の精鋭4000が川を渡り、蝦夷軍の指導者である阿弖流為(あてるい)の居に至ると、蝦夷の軍300が迎えうった。はじめは政府軍の勢いがやや強いように見えたので、政府軍は戦いながら巣伏村にいたり別働隊と合流しようとしたところ、別働隊は蝦夷側にはばまれて進み渡ることができなくなった。そこへ、さらに蝦夷軍8000がやってきて防ぎ戦った。その力がはなはだ強かったため、ついに政府軍は退却し、蝦夷軍は攻勢にうつった。その後、さらに蝦夷軍が東山からあらわれて政府軍の後を絶ったため、政府軍は前後に敵を受けてしまった。この戦いで、政府軍は首脳陣で戦死した者25人、矢にあたった者245人、川に投じて溺死した者1036人、裸身で泳ぎ帰った者1257人という大敗を喫した。他方、政府軍が蝦夷側に与えた損害は焼亡14村、800戸ばかり。征東将軍は軍を解散するほかなかった。
 3回目の延暦13年(794年)には10万の大軍が動員された。4回目は、延暦20年(801年)で、朝廷は坂上田村麻呂を征夷大将軍に任命し、翌年、阿弖流為は兵500人を率いて降った。阿弖流為は同年8月、京都貴族の処刑すべきだという強硬意見によって処刑された。
 胆沢の蝦夷社会は度重なる数万規模の政府軍を相手に、その攻撃から一歩も退くことがなく戦う実力をそなえていた。阿弖流為や母礼の指導力は、単一の、あるいはごく少数の集落をこえた広い範囲に及んでいた。
 このような実情が小説とはいえ、「火怨」に生き生きと描かれています。決して損はしないと思いますので、どちらも読んでみて下さい。

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