弁護士会の読書

※本欄の記述はあくまで会員の個人的意見です。

2006年1月 7日

ジャンヌ・ダルク

著者:高山一彦、出版社:岩波新書
 おけましておめでとうございます。本年も楽しみながら続けるつもりですので、どうぞご愛読ください。
 オルレアンの少女、ジャンヌ・ダルクについて私たちが詳しく知ることができるのは、彼女が裁判にかけられ、何人もの証人が調べられて、それが書面で残っていることによります。しかも、その裁判は、実は2回あったのです。1回目は処刑されたときのことですが、処刑されたあと、彼女の復権(名誉回復)のための裁判がもう1回あっているのです。敵に捕まって、いきなり処刑されたというわけではありません。裁判があったというのは面白いことですよね。2回とも、いわゆる教会裁判です。1回目の処刑裁判は、ジャンヌ自身が追求に答えて語ったところが詳しく調書に記載されて残っています。
 2回目は、ジャンヌの母親がローマ教皇に訴えて、ジャンヌが火刑されて25年後に行われた「やり直し裁判」です。そこでは、故郷の幼なじみや、オルレアンでともに戦った戦友・市民たちなど、100人をこす人が証人として証言していますが、この記録も残っているのです。これが、ジャンヌ・ダルク処刑裁判記録として全2巻の大部な本になっているそうです。私たちは、その要点を岩波新書で簡単に知ることができるわけです。
 ジャンヌ・ダルク自身が剣をふるって敵と戦ったことはない。旗印しを好んで手にしていたのは、敵を傷つけないためとジャンヌ自身が法廷で供述している。
 ジャンヌ・ダルクが登場するのは、1429年春、4月29日のこと。ロワール川中流にあるオルレアンの町をイギリス軍が包囲して半年に及んでいました。
 ジャンヌの処刑裁判は、1431年2月21日午前8時から、ルーアン城内の国王礼拝堂を法廷として始まった。このとき、修道院長ら聖職者が42人出席している。
 ジャンヌの生まれたトンレミ村は現在、人口200人前後のささやかな集落。オルレアンの町の包囲が半年も続いて絶望状態と思われていたのに、ジャンヌの出現によって10日足らずで解放された。
 火刑を執行したイギリス側は、火刑の最中に火勢をいったん止めて、焼けた死体を見物人に示して、娘が死んだことを確認させ、遺骸の灰を残らずセーヌ川に捨てさせた。これは、当時すでにジャンヌを聖女視する風潮が大衆のあいだに芽生えていたことを物語るもので、イギリス側は、ジャンヌの遺骸が聖者の遺物として崇敬の対象となることを防ごうとした。
 1455年6月11日、オルレアンにいたジャンヌの母からの再審の訴えをローマ教皇カリクスト3世は認め、ジャンヌ復権の裁判が始まった。1456年7月7日、判決が下された。
 前の裁判と判決は名実ともに欺瞞、中傷、不正、矛盾、明確な過誤を犯すものであり、被告の改悛、その断罪および諸結果を含め、過去および現在にわたり無効であり、否認されるべきものであることを宣言する。
 国王による調査から数えると復権の成立まで7年の歳月をかけ、あらゆる階層にわたってのべ110名あまりの証人を調べた裁判の結果の判決でした。
 実は、ジャンヌ・ダルクの処刑裁判のとき、ジャンヌの改悛事件というのが起き、いったんは火刑を免れそうになったのです。破門判決文の朗読のさなかに火刑台を目の前にすえられて火刑の恐怖に怯え、自分が聴いたと称してきた「声」は作り話であったと否認し、男の服装も捨てると誓約したということです。ところが、数日後、牢内で誓約を破って再び男の服装を身につけたことから、ジャンヌは今度こそ救済の余地のない戻り異端として教会からの破門という判決を受け、火刑に処せられました。
 ジャンヌは火刑台の上で息絶えるまで、「イエズス様、イエズス様」と叫んでいたと後の復権裁判のとき、修道士たちが証言しています。
 この本は、ジャンヌの改悛なるものは、かなりの混乱のなかで、ほぼ強制的に行われたものだとしています。そして、裁判記録にも重大な書き換えがあると指摘しています。いわば今日にも見られるような政治的裁判劇であったということでしょう。
 人間ジャンヌの素顔を知ることのできる面白い本です。

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