弁護士会の読書

※本欄の記述はあくまで会員の個人的意見です。

2005年12月 2日

蝉しぐれ

著者:藤沢周平、出版社:文春文庫
 映画も見て、しっとりした江戸情緒を心ゆくまで堪能しました。薄暗い映画館のなかで過ぎ去った青春時代を思い起こしながら胸を熱くしました。味わい深い原作をもとに、大自然のこまやかな季節の移ろい、そして人さまざまの生き方が見事に描き出されています。
 陽炎のたちのぼる炎暑の坂道にさしかかり、父の遺体を汗だくになって必死に運ぶ文四郎。それを手伝おうとして隣の娘ふくが坂の上から駆けおりてくるシーン。黄金の稲穂が風に揺れる風景。水田に入って作柄の様子を調べている見まわり役人の苦労。雪をいただいた、威厳すら感じさせる堂々たる山並み。何かしら胸の奥につきあげるものを感じます。いかにもニッポンの原風景です。山田洋次監督の映画「たそがれ清兵衛」にも美しい情景と鮮やかな殺陣に魅せられてしまいましたが、同じ藤沢周平が原作でした。
 凛とした、張りのある美しい女優さんに強く魅せられました。憂いのある微笑みがアップでうつしだされると、ほかには何も目に入りません。まさに至福のひとときです。
 海坂(うなさか)藩普請組の軽輩・牧文四郎の父は藩内部の抗争に巻きこまれ、突然、切腹を命じられた。文四郎はその子どもとして苦難の道を歩みながら大きくなっていく。そして隣家に住む幼なじみの少女ふくは江戸にのぼる。やがてお殿さまの手がつき、側室となって郷里に帰ってくる。
 剣の道をきわめた文四郎に側室の子どもを奪う命令が下る。そこへ刺客たちが乱入し、側室と殿の子どもの命が狙われる。文四郎の殺陣まわりは迫真のものがあります。日本刀で人を斬ると血が人間の身体から噴き出し、刀はこぼれて使いものにならなくなります。斬り合いがいかに大変なことか痛感しました。
 そして20年後、文四郎は殿様と死別した側室ふくに呼び出され、久しぶりに再開します。静かな屋敷で、並んで庭を眺めながら話します。
 「文四郎さんの御子が私の子で、私の子どもが文四郎さんの御子であるような道はなかったのでしょうか」
 「それが出来なかったことを、それがし、生涯の悔いとしております」
 「うれしい。でも、きっとこういうふうに終わるのですね。この世に悔いを持たぬ人などいないでしょうから。はかない世の中・・・」
 原作と映画では、このあたりが微妙に異なっています。原作は、この会話のあと何かが起きたことを暗示していますが、映画の方はあっさりしたものです。どちらがありえたのか・・・。私は原作を選びます。でも、映画の方がいいという人も多いことでしょうね。
 ふくを見送る文四郎を、黒松林の蝉しぐれが耳を聾するばかりにつつんで来た・・・。
 そうなんですよね。みんな青春の淡く、ほろ苦い思い出があるものなんです。

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