弁護士会の読書

※本欄の記述はあくまで会員の個人的意見です。

2005年11月25日

源義経

著者:近藤好和、出版社:ミネルヴァ書房
 さすが有職故実(ゆうそくこじつ)を専門とする学者の書いた本だけあって、なるほどそうだったのかと思ったところがいくつもありました。
 甲冑は甲と冑であり、甲が「よろい」、冑が「かぶと」である。しかし、10世紀以降、しばしば逆によまれてきた。よろいは鎧ともかく。大鎧は、弓射騎兵の主戦法である騎射戦での防御をよく考慮したもので、全重量は30キロにもなる。
 馬には前歯と臼歯との間に、歯槽間縁といって歯のない部分があり、啣(はみ)は、そこに銜(くわ)えさせる。
 日本の馬は体高4尺(120センチ)を基準とする。サラブレッドは小さくても体高160センチあるので、日本の馬はかなり小さいことになる。しかし、アジアの草原馬のなかでは日本の馬は標準的な大きさなのであり、日本だけがことさら小さいわけではない。むしろ、競争馬に改良されたサラブレッドやアラブ種の大きさが特殊なのだ。とくに、馬は群をなすのが本能なのに、サラブレッドは逆に他の馬が近づいてくるのを嫌うことから、馬とは言えないという見方もある。
 大鎧などの武具を着装した騎兵は体重ともに100キロはこえていたから、それを乗せた日本の馬は力強かった。気性の荒い駻馬(かんば)だったろう。明治より前の日本には馬を去勢したり、蹄鉄の技術はなかった。なお、外国では左側から馬に乗るが、日本では右側から乗った。
 ところで、現在の走歩行は左右の手足が交互に出るのがふつう。しかし、江戸時代までは左右の手足が同時に出ていた。これをナンバという。相撲のすり足である。これを常足(なみあし)ともいう。四つ足動物は常足だ。騎兵にとって、騎乗者も常足が常態なら、人馬一体の動きができるわけである。現在感覚で考えてはいけない。
 この本で私がもっとも注目したのは、騎馬で断崖絶壁を降りていっている写真です。まさしく直角の絶壁を馬に乗った騎兵が降りています。なるほど、これだったら義経が一ノ谷合戦のとき、鵯越(ひよどりごえ)で坂落としすることはできたのでしょう。訓練(調教)次第で馬は何でもできるようです。著者はいろいろの説はあるが、義経は「吾妻鏡」では70騎をひきつれて鵯越の坂落としを敢行したという見解です。だから現実味があるとしています。ふむふむ、かなり説得的ですね・・・。
 また、壇ノ浦合戦のときの平氏の敗因を潮流が変わったことに求める説には科学的根拠がないとしています。さらに、義経が当時の慣習に反して水手(すいしゅ)や梶取(かんどり)をまず殺して平氏方の船の自由を奪い、それから船内に乱入したことが平氏の敗因になったという説にも根拠が乏しいとしています。むしろ、そうではなくて著者は、平氏に長年つかえてきた阿波重能の裏切りが敗因だとしています。
 歴史にはまだまだ語られるべきことは多い。そういうことのようです。

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