弁護士会の読書

※本欄の記述はあくまで会員の個人的意見です。

2005年11月21日

殴り合う貴族たち

著者:繁田信一、出版社:柏書房
 平安朝裏源氏物語というサブタイトルがついていますが、まさしく貴族に対する従来のイメージを一変させてしまう本でした。
 あの藤原道長が23歳のときのことです。権中納言(ごんのちゅうなごん)であった彼が宮中の官人採用試験の試験管(式部少輔、しきぶのしょう)を拉致して道長の邸宅まで歩かせたというのです。その目的は、試験結果に手心を加えるよう圧力をかけようということでした。また、48歳のとき、左大臣になっていた道長が2人の貴族を自邸の小屋に監禁しました。道長の妻の外出の準備を手際よくすすめることができなかったという理由からです。なんということでしょう。
 また、道長のオイの子(経輔)が天皇(後一条)の御前で殿中(紫宸殿)において取っ組み合いのケンカをはじめたというのです。お互いに相手の頭髪(もとどり)をつかんで、格闘したというのですから驚きです。でも、経輔が19歳だったというのを知れば、さもありなんと納得してしまいます。昔も今も、若者はとかく暴走しがちなのです。
 同じく道長の別のオイ(兼隆)は自分の従者を殴り殺してしまいました。そして、その子の兼房は宮中において蔵人頭(くろうどのとう)を追いかけまわし、さらには宮中で仏事の最中に少納言に対して一方的な暴行を働いたり、宮内少輔(くないのしょう)に集団リンチを加えたのです。
 すさまじい話が当時の「少右記」などの貴族の日誌に記録されています。ちっとも知りませんでした。この本によると、王朝時代に暴力沙汰を起こした貴公子は中関白道隆や粟田関白道兼の息子たちや孫たちばかりではなかったというのです。
 彼らは氷山の一角にすぎない。暴力事件につながるような不品行は、王朝時代の貴公子たちのあいだに蔓延していた。
 道長が成人してからは、その子どもたちが数々の不祥事を繰り返しています。道長の子(三位中将藤原能信・よしのぶ)は20歳のとき、僧侶の娘に対する強姦に手を貸そうとしています。その前、19歳のとき、衆人環境のなかで大路のまっただなかで貴族たちに暴行を加えてもいるのです。道長の息子たちは何度も暴力事件を起こしておきながら、けっして自分自身の手は汚さず、つねにすべてを従者たちにやらせていました。
 王朝時代の貴族社会においては、債権の回収に暴力が用いられるのは、それほど珍しいことではなかった。むしろ、悪質な債務者に対しては、王朝貴族たちはためらうことなく暴力に訴えていた。つまり、王朝貴族たちの行使した暴力は、しばしば債権回収と結びついていた。これでは、まるで、現代の悪徳金貸しです。
 後妻打(うわなりうち)も珍しくはなかった。これは1人の男の妻の座をめぐって、前妻が後妻を迫害するということ。北条政子が頼朝の新しい愛人となった女性(亀)を迫害したのは有名な話です。平安時代にもこの「うわなりうち」が激しくやられていました。ところが、当時の結婚は届出もないので、本人たちの気持ちひとつです。ですから、妻といい、妾と言っても、そこには法的な区別のつけようがありません。
 「源氏物語」の主人公である光源氏のモデルの一人であったはずの藤原道長は、お世辞にも理想的な貴公子とは言えない人物であるし、現実世界の貴公子たちは素行の悪い連中ばかりだった。著者はこのように指摘しています。そうだったのかー・・・。ちっとも知しませんでした。目を覚まされた思いです。

  • URL

カテゴリー

Backnumber

最近のエントリー