弁護士会の読書

※本欄の記述はあくまで会員の個人的意見です。

2005年8月26日

天下城

著者:佐々木 譲、出版社:新潮社
 戦国時代、近江の国に穴太衆(あのうしゅう)と呼ばれる石工集団がいた。親方9人と250人ほどの職人を擁する石積み集団であった。この集団が織田信長の安土城の石積みにあたり、また、大阪城の石積みも担当した。
 この本は、安土城の基礎(土台)をつくった石工集団を主人公としています。安土城の建物をつくった大工集団を主人公とした本が別にあります(「火天の城」、山本兼一、文芸春秋)。石工集団は、大工とはまた一味ちがった専門家集団だったことがよく分かります。
 私は安土城に2度のぼり、天主台跡に立ちました。ここに昔、信長が立っていたのだと思うと、なんとなく感慨深いものがありました。
 天主台は、本丸の地表面から見て高さ45尺、天主台の上の広さは南北の最長部が20間、東西の最長部が17間という四角形。天主の底面は12間四方という広さ。こう書いても、実は尺とか間とかいうのがメートル法に慣れた私にはピンと来ません・・・。
 安土城には追手門(正面にある大手門のことだと思います)から入って、広い追手道が真正面に一直線に上がっていきます。私も現地で確認しました。のぼり切ったところを左折します。その両側には信長の重臣たちの屋敷があり、何かあると左右から攻撃できる配置になっているのです。現地では発掘がすすんでいて、かなり当時の状況が推測できるようになっています。
 この追手道は天皇を安土城に迎えたときのことを考えて、広く一直線の道路に信長はしたとされています。さもありなん、です。
 長篠の合戦で、穴太衆が活躍したとされています。織田・徳川連合軍が鉄砲3000挺を1000挺ずつ三段柵で構えているところを武田軍が無謀な突撃をくり返して惨敗したという有名な話は事実に反するという本があります(「鉄砲隊と騎馬軍団」、鈴木眞哉、洋泉社新書)。この本も、従来の通説どおりではありません。柵と壕と土塁の三点セットで、石積み職人集団が活躍したとしています。また、織田・徳川連合軍がもっていた鉄砲の数は1000挺としています。先ほどの本は1500挺としていますが・・・。
 お城の石垣といえば、熊本城のいかにも整然とした石積みは見事なものですよね。あれを見たら、なるほど高度に専門化した石積み職人の集団がいたことは直ちにうなづけます。

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