弁護士会の読書

※本欄の記述はあくまで会員の個人的意見です。

2005年7月27日

靖国問題

著者:高橋哲哉、出版社:ちくま新書
 靖国神社については、新聞を丹念に読んでいるので、ほとんど知っていると思っていましたが、それがまったくの間違いだったことをこの本を読んで深く認識させられました。汗顔の至りです。
 靖国神社は1869年に東京招魂社として創建されたものです。その前からあったわけではありません。10年後の1879年に靖国神社と名前を変え、別格官幣社となりました。日本の戦没者祭祀の中心施設となったのは日露戦争後のことです。
 靖国神社には、日清、日露、第一次大戦だけでなく、台湾出兵から台湾霧社事件や「不逞鮮人」討伐など、日本が植民地を獲得し、そこでの抵抗運動を弾圧するための日本軍の戦闘行為がすべて正義の戦争とされ、そこで死亡した将兵が英霊として顕彰されています。
 靖国神社は、戦士を悲しむことを本質とするのではなく、その悲しみを正反対の喜びに転換させようとするところである。家族を失って悲嘆の涙にくれる戦死者を放置していたのでは、次の戦争で国家のために命を捨てても戦う兵士の精神を調達することはできない。戦死者とその遺族に最大の国家的栄誉を与えることによってこそ、自らの国のための「名誉の戦死」を遂げようとする兵士たちを動員することができるのだ。
 この本には、靖国神社に合祀されている遺族の陳述書が紹介されています。大阪地裁に提出されたものです。
 「靖国神社を汚すくらいなら私自身を百万回殺して下さい。たった一言、靖国神社を罵倒する言葉を聞くだけで、私自身の身が切り裂かれ、全身の血が逆流してあふれだし、それが見渡すかぎり、戦士たちの血の海となって広がっていくのが見えるようです」
 しかし、小泉首相が靖国神社参拝をくり返し強行することについては、中国や韓国そしてアジア諸国の犠牲者の遺族からの激しい怒りと哀しみがぶつけられています。この点について、著者は次のように指摘しています。
 日本の側に遺族感情や国民感情があるならば、アジア諸国の側にも、仮に感情の量を比べることができるとしたら、その何倍にもあたる遺族感情や国民感情がある。
 まことにそのとおりだと私も思います。実は、私の亡父も中国大陸に2等兵として渡り、戦場を転々としています。幸いにも病気(腸チフス)のため日本に送還されて命を助かりましたが・・・。また、三井の労務係として、朝鮮半島から徴用工を連れて帰る仕事にもついています。日本人に加害者の側面があることを決して忘れてはいけません。これは自虐史観という問題ではありません。諸国との友好を考えるなら、必要不可欠の視点です。
 身内から戦死者を出せば遺族は当然のことながら悲しみます。ところが、その悲しみが国家的儀式を経ることによって、一転して喜びに転化してしまうのだ。悲しみから喜びへ、不幸から幸福へ、遺族感情が180度逆のものに変わってしまう。著者はこのように指摘しています。戦う国家とは祀る国家であり、祀る国家とは戦う国家なのである。このように喝破しています。まことにズバリ本質をついた言葉です。
 この本では、2004年4月7日に出た福岡地裁による小泉首相の靖国神社参拝を違憲とした判決を高く評価しています。私も大賛成です。たまには裁判所も勇気ある判決を下すものだとの感動を覚えました。それほど、ふだんは裁判官の勇気のなさに絶望的な思いにかられているからでもあります・・・。

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