弁護士会の読書

※本欄の記述はあくまで会員の個人的意見です。

2004年3月 1日

クアトロ・ラガッツイ

著者:若桑みどり、出版社:集英社
 信長・秀吉の時代にローマ教皇に会いに出かけた天正少年使節の栄光と悲しい運命を描いた本です。上下2段組みで530頁もありますが、質量ともに大変読みごたえのある書物です。福岡のある裁判官と立ち話をしたとき、この本が話題となりました。私はぜひ読んでみてくださいと強くすすめました。
 4人の少年は1582年(天正10年)に出発し、1590年(天正18年)に帰国しました。実に8年5ヶ月かかっています。出発のとき12歳から14歳だった少年たちは、20歳ないし22歳という立派な大人になっていて、実の母親でさえも見分けがつかないほどでした。すでに信長は倒され、秀吉の天下になっていました。しかも、伴天連追放令が出ています。すっかり世の中が変わっているなか、秀吉に面会できるか危ぶまれました。そこを押しきって上京し、威風堂々と行進するなかで、秀吉の方もインド副王の手紙が来たことを自分の権威誇示に役立てようという思惑から、少年たちに面会することになります。そして、伊東マンショに士官をすすめたのです。もちろん、マンショは断ります。でも、断り方には慎重な配慮が必要でした。
 マンショは、そのまま日本にとどまり、42歳のとき長崎で病死します。原マルチーノは国外追放となり、マカオで死にました。中浦ジュリアンは日本国内に潜伏し、1633年、長崎で穴吊りの刑にあって殉教します。残る松田ミゲルは棄教者となりました。しかし、1637年に勃発した島原の乱のとき、天草四郎はミゲルの息子だという噂が立っていたというのです。
 伝道が始まってわずか数十年のうちに、キリスト教の信者は九州の全人口の3割をこえる30万人に達しました。これは、キリスト教がまず貧民の救済事業を行ったことが大きいようです。
 ザビエルは手紙にこう書きました。「日本人は非常に好奇心に富み、知識に渇し、問題を出し、またその答えを聞いて、少しも疲れない。新事物を聞くこと、とくに宗教上のことを聞きたがるのは、そのもっとも好むところ。日本に来る神父は、日本人のする無数の質問に答えるための学識をもつ必要がある。日本人との討論において、その矛盾を指摘するために、弁証法学を知っているとなお結構である。宇宙の現象のことを知っていると、ますます都合がよい。なぜなら、日本人は、天体の運行や日蝕や月の満ち欠けの理由などを熱心に聞くからである」
 家光は12年間に28万人ものキリスト教徒を殺しました。改宗しさえすれば殺されないのに、改宗しないで死を選んだ日本人がそれほど多かったということです。
 権力と命令系統に従順な日本人の平の武士が、キリシタンになったとたん、命がけで権力にさからって自分たちの宗教を護ろうとする。これを権力者が放っておくわけがありません。巡察師ヴァリヤーノは日本人について、次のようにローマ教皇に報告しました。
 「彼らはきわめて礼儀正しい。貴族ばかりではない。一般庶民や労働者も驚くべき礼儀をもって上品に育成され、それはあたかも宮廷人のようである。この点で、彼らは東洋の諸民族のみならず、我らヨーロッパ人よりも優秀である。人々は有能であり、すぐれた理解力をもち、子どもたちは我らの学問や規律をすべてよく吸収し、ヨーロッパの子どもよりもはるかに容易に、また短期間に我らの言葉で読み書きを覚える。彼らのことごとくがあるひとつの言語を話すが、それは知られている限り、もっとも優秀なものであり、きわめて優雅であり、私たちのラテン語よりも語彙が豊富で思想をよく表現する」。
 果たして現代日本人にもあてはまると言えるのでしょうか・・・?
 高山右近はマニラに追放されましたが、そこで国賓のように歓迎され、彼の孫は総督の養子になっています。そして、高山右近の領地であった摂津高槻の隠れキリシタンは250年後まで生き延びました。日本教会の奇蹟と言われています。

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