弁護士会の読書

※本欄の記述はあくまで会員の個人的意見です。

2011年2月28日

クマチカ昆虫記

生き物

著者 熊田 千佳慕 、 求龍堂  出版 
 
絵本ファーブル昆虫記のための勉強帖というサブ・タイトルのついた楽しい昆虫記です。地道な虫の勉強が支えた驚異的な細密画だと紹介されていましが、単に細かいところまで描けているというのではありません。生命力を感じさせる躍動感が絵から見事に感じ取れるのです。ぜひぜひ、実物を手にとって眺めてみてください。
 それにしても、ここに紹介されている昆虫のさまざまな生態もまた驚異的です。大自然のなせる技は、神秘的としか言いようがありません。それを観察し、文章にした著者も、普ファーブル同様、偉いものです。
 ミツカドセンチコガネ(糞虫)は、春のはじめか秋の終わりころ、メスが場所をえらんで巣づくりをはじめる。ある程度まで巣穴が掘れたころ、オスが訪ねてくる。二匹も三匹も。メスは、その中からオスをえらぶ。そして長いあいだ共に生活する。
 キンイロオサムシは、結婚が終わると、メスがオスを食べる。メスはオスより少し大きい。オスは抵抗もしないでメスに食べられる。ええーっ、なんということでしょう。カマキリのオスはなんとか逃げ出しているようなのですが・・・・。
 ベッコウバチは、クモ狩りがとてもうまい。はじめにクモを怒らせて、その前足をあげさせ、ひらいた毒のキバとキバのあいだにさっと飛び込み、毒針を刺して相手をしとめる。このやり方で、自分の何倍もあるクモをしとめる。いやはや、すごい狩りですね。
 ミツバチハナスガリの母バチは、自分の食事としてはミツバチを殺し、そのミツを吸いとってしまい、ミツバチは捨てる。タマゴは死んだミツバチの胸に産みつける。ミツは幼虫にとって生命とりになる。だから母バチは狩りのとき、ミツバチからミツを全部抜きとってしまう。ハチの仲間はみな花のミツを舐めて生きているが、このハチは、自分の食事のために生き餌を漁る。ミツも舐めるが、生き血も吸う。なんとなんと、こんなところまで観察して明らかにしているとは・・・・。その観察力には脱帽、いえ降参です。
(2010年11月刊。1800円+税)

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田舎の日曜日

人間

著者  佐々木 幹郎、   みすず書房 出版 
 
 浅間山の麓に山小屋を作って週末ごとに生活している著者が、ツリーハウスをこしらえるという話です。森の中の自然あふれる生活が情趣豊かに描かれています。時間(とき)がゆったりと流れていく感じがよく伝わってきて、読んでると、なんとなく心の安まる思いのする本です。
 どんな人が書いた本なのか巻末を見てみると、なんと私と同世代の詩人でした。もっと年長の高齢者だとばかり思って読んでいたのです。東京芸大の音楽研究科で教えているというのですから、私なんかとは違って芸術的センスが大いにあるようで、うらやましい限りです。道理で文章にもゆったりした詩的なリズムが感じられます。
ツリーハウスというから、どんなものかと思うと、要するに、子どものころ木の上につくった秘密基地をもっともらしくしたようなものです。そこで生活できるというわけでもありません。そうなると、こういうものは、結果よりも、つくっていく過程自体が楽しみなのですよね。この本も、つくり上げていく過程がたくさん紹介されていて、そこがまた興味をそそられるのです。
 歌手の小室等が来てギターをひいて歌ってくれるのですが、ほかには、それといった大事件が起きるわけではありません。いえ、宮崎の新燃岳ではありませんが、浅間山が噴火することはありました。そして、可愛らしいムササビが登場します。
 山小屋生活も、たまにならいいのかもしれないと思わせる本でした。でも、一年中そこで生活するとなると、本当は大変なんなんじゃないでしょうか・・・・。いえ、別にケチをつけているわけではありません。こんな環境で週末のんびり骨休みできるなんて、うらやましいと言っているだけです。
(2010年11月刊。2700円+税)

 火曜日、日比谷公園に行ってきました。3月の陽気でしたが、園内にはほとんど花が咲いていません。梅もハナモモもまだつぼみ状態です。
 わが家の庭の梅も今年は咲くのが遅れています。両隣の梅は咲いているのに、うちはツボミばかりです。紅梅のほうはいくらか花を咲かせています。
 夕方6時くらいまでは明るく、庭仕事に精を出しことができるようになりました。それでも、春は花粉症の季節でもあります。ときどき反応して、目から涙、鼻水が出て、くしゃみを連発することがあります。ひどくならなければいいのですが・・・。

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戦争と広告

日本史

著者  馬場マコト、  白水社  出版 
 
 広告クリエーター、山名文夫(やまなあやお)の物語です。
 資生堂の広告をかいていた山名は、戦争に突入してからは、「産業技術は、その技量を今こそ国家のために動員し、民衆を指導し、啓発し、説得し、昂揚させるために、大東亜戦争のもとに集結せよ」と説くことになった。
 山名文夫は、自分の持つ商業美術の技量を総動員し、民衆を緊張させ、結集させ、行進させた。「おねがいです。隊長殿、あの旗を討たせて下さいッ!」という山名のついたポスターは、兵士からの参加性の視点が、きわめてユニークなものにして、衆目を集めた。
 資生堂は、創業以来、商売よりも美を優先してきた。その「百年史」には、メーカーなら第一に語られる商品、流通の歴史よりも、広告の歴史が主体となっている。日本の社史のなかでも珍しい。意匠広告部の社員の入社・退職が細かく記され、広告・商品デザインの担当者の名前をクレジットし、こだわりを見せる。 
資生堂は、陸軍から大量のセッケンを受注し、これをきっかけとして、第二次大戦の軍需に支えられるようになった。女偏の会社が、戦偏の会社に変わったのだ。
 広告というビジネスは、いつも時代におべっかを使いながら、自分自身を時代に変容させて生きるビジネスだ。悲しいかな、自分の思想も何もあったものではない。そうやって、自分が生まれてきた時代を生きてきた。しかし、時代と併走しつづけるのも、これでなかなか大変なのだ。時代の変化を習慣的に読みとり、自分の感性と肉体を反射的に変容させなくてはいけない。時代はなかなかの暴れ馬で、ちょっと油断すると振り落とされてしまう。 
戦争は嫌だと高言している著者です。広告の恐ろしさをまざまざと感じさせる本です。なんといっても、私たちは、あの「小泉劇場」の怖さを体験していますよね。
 どんな世の中になっても、戦争を起こさないこと、これだけを人類は意志しつづけるしかないと著者は強調しています。まったく同感です。日本も核武装しろなんて声が多いというのを聞くと、身震いしてしまいます。核兵器をもて遊んではいけません。核戦争になったら、全地球、全人類が破滅するのですよ・・・。勇ましい掛け声は無責任そのものです。
(2010年9月刊。2400円+税)

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2011年2月25日

ドラゴンフライ(上・下)

宇宙

著者  ブライアン・バロウ、   筑摩書房 出版 
 
 ドラゴンフライとはトンボのこと。ロシアの宇宙ステーション、ミール。軌道上の巨大なトンボ、それがミールである。ミールとは平和ないし世界を意味するロシア語。
 ソ連がミールを打ち上げたのは1986年のこと。ロシアの宇宙飛行士が滞在した。そして、1992年からミールにアメリカの宇宙飛行士が滞在するようになった。アメリカ人とロシア人が狭い宇宙船で共同生活できたのは、不思議といえば不思議ですね。
 ロシアのミールにアメリカの宇宙飛行士が乗るようになったのは、アメリカの大統領選挙を前にしてクリントン優勢に焦ったブッシュ陣営がマスコミ向けの話題づくりを企図したことからだったようです。動機は不純だったわけですが、結果としては、いいことだったのではないでしょうか・・・・。
1997年に、老朽化した宇宙ステーション・ミールで深刻な事故が発生し、クルー(乗組員)は生命の危機にさらされた。この本は、その実情をつぶさに描き出しています。ぞっとする危機がありましたが、なんとか大事に至らず切り抜けました。この点ではロシア人の粘りとタフさには頭が下がります。
 1996年に重量130トンを超える巨大な宇宙構造物が誕生した。もともとミールの耐用年数は5年。1992年までには、ミール2号が打ち上げられる予定だった。しかし、ソ連の崩壊で、ミール2号の打ち上げは不可能となった。そこで、耐用年数の過ぎたミールを使い続けた。その結果、火災・ドッキングの失敗、酸素発生装置の故障、冷却材の漏出、プログレス輸送船の衝突、停電、メイン・コンピューターの故障などの深刻な事態が1997年にたて続けに起こった。その多くは、ミールの各装置の老朽化や部品の信頼性の低下に起因していた。
これらの難局を切り抜けたことはロシアの宇宙技術の確かさと、ロシア人宇宙飛行士の生存能力の高さを証明している。
以上、この本の末尾にある解説を紹介しました。
衝突事故に対するアメリカとロシアの反応には、両国の有人宇宙飛行計画の違いが顕著にあらわれている。
 ロシア人は真っ暗になったステーションのなかで、落ち着いて仕事に取りかかる。それまでにも異常な状況に陥ったことは何度もあった。そういう状況に置かれたとき、ロシアの宇宙飛行士はアメリカの飛行士よりずっとタフだ。シャトルで機械が故障すると、アメリカのミッションは中止され、修理は地上でなされる。ロシアの宇宙ステーションでは、このような贅沢は許されない。ミールで何か問題が発生したら、ロシア人宇宙飛行士は宇宙空間でその修理をさせられる。だからこそ、ロシア人は経験に頼る修理を20年にわたって積み重ねてこられたのであり、一方、アメリカはそれを書物で読んだことがあるだけということになった。NASAは物事をとことん研究し、ことごとくマニュアルに組み込む傾向があったのに対して、ロシア人は実地でものを修理する技術を発達させた。
今ではシャトルの飛行はしない横断バスに乗るときほどの緊張感しかない、日常のありふれた出来事にすぎない。安全第一に考えるNASAの官僚主義に息苦しいほどがんじがらめに縛られている。
 ケネディ宇宙センターに行くと、宇宙飛行士の仕事は、星を見て、小便をするだけという皮肉たっぷりの言葉が聞かれる。宇宙飛行がこんなにも魅力のないものになったのは、シャトルがシャトル本来の機能を果たしていないから。
ロシアとアメリカでは、ドッキング・システムに違いがあった。これには両国の政治体制の違いが反映していた。NASAでは船長の専門技術と意思決定能力を誇りとしていたので、ドッキングはすべて宇宙飛行士に任せ、手動で行っていた。ロシアでは、一党独裁体制にふさわしく、ドッキング・システムも中央集権的な方法をとり、宇宙船の制御を宇宙飛行士の手から奪いとって、地上管制官の手に握らせた。
ロシアの宇宙飛行士は、ミール内でタバコを吸い、ウォッカを飲んだ。ウォッカは「心理サポート」物資の名目で補給戦プログレスに積み込まれ、ミールに送られた。うひゃあ、ロシア人って宇宙でもウォッカを飲んでいたんですか・・・・。そのため、ロシア人男性の平均寿命は60歳だそうですよ。
ミールに載った宇宙飛行士の半分は宇宙酔いにやられた。激しい頭痛と周期的に襲ってくる吐き気に耐えなければならなかった。無重力状態では、意識を失った者は空中にじっと浮かんでいるだけなので、誰かが一緒にいなければ、その人間が人事不省に陥っていることに気づく者はいない。
ロシア人宇宙飛行士がシャトルを危険だと考えたのは脱出装置がないから。脱出装置のおかげで、長年のあいだに何人ものロシア人宇宙飛行士が命拾いしていた。
 シャトルに自爆装置があるのもロシア人にとっては仰天だった。シャトルがコースをはずれて人口密集地に墜落する怖れがあるという不測の事態が生じたとき、NASAの地上管制官がシャトルを爆破するためのものだ。しかし、ロシアの宇宙船には、そのようなものが組み込まれていたことはない。
宇宙船の実情と宇宙飛行士の大変な実情を知って、改めて驚かされました。すごいものですね。私には、とてもこんな勇気はありません・・・・。
(2000年5月刊。2300円+2400円+税)

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2011年2月24日

池袋チャイナタウン

社会

著者  山下 清海 、  洋泉社  出版 
 
 今の中国を知りたければ、東京は池袋駅北口に出かけてみてほしい。福岡市生まれの著者は、このように呼びかけています。
 池袋駅北口に広がる町は、1980年代以降に日本へやってきた「新華僑」たちによって形成された新しい町である。池袋チャイナタウンは、観光地化する前の化粧気なしの素顔のチャイナタウンである。
 日本の三大中華街は、横浜中華街、神戸南京街、長崎新地中華街。いずれも観光地であり、日本人が中華を味わうために訪れる場所になっている。
 横浜中華街には、中華料理店が200軒。500メートル4方の広さに600軒ほどの店があって、日本最大のチャイナタウンである。
 私も司法修習生として横浜に1年ほどいましたので、中華街には、よく出かけました。
ところが、池袋駅北口はチャイナタウンらしく見えない。それは、新華僑経営の店の多くが雑居ビルのなかにはいっているから。そして観光客を相手にしているわけではないので、横浜のようなきらびやかな店構えは必要ない。そこで出される料理も、日本人向けにアレンジされていない香辛料は油をたっぷり使ったもの。ここには中国の東北料理店が多い。
 現在の在日中国人は69万人弱。全外国人の3割をこえる。その4分の1が東京に集中している。日本人国籍を取得した元華僑が12万人に近いので、在日中国人は80万人にもなる。
 中国人が日本に渡ってくるときには、親戚縁者を中心とした資金援助を受けている。これには、常に何らかの「見返り」の期待が込められている。単なるカンパというより、投資みたいなものとなっている。もし、義理を欠くと、あとで親戚中から総スカンをくらいかねない。
新華僑は、一定の峻別をくぐった人たちであり、実は中国の農村に色濃く残る強固な地縁血社会を体現している。かつては、日本への航海には、蛇頭などの犯罪組織が介在し、200万円もの大金を要した。今は、そんな危険な橋を要した。今は、そんな危険な橋を渡って出国する人はほとんどいない。そうなんですか・・・・。時代は変わりましたね。
 埼玉県川口市にある川口芝園団地には、2400世帯のうちの3分の1が新華僑世帯となっている。その多くが大学卒以上の学歴で、IT技術者を中心とするエリート層が多い。
 不良中国人グループは、自分たちを実際以上に大きく見せて威嚇しようとした。そこで、警察、マスコミ、犯人グループという三者の思惑が一致し、チンピラ中国人が「中国マフィア」になってしまった。
 うむむ、なるほど、そういう見方もあるのですか・・・・。それにしても、東京都の石原知事なんて、いまだに「第三国人」なんて差別用語を平気でつかい、マスコミもそれを糾弾しないのですから、本当に日本って変な国ですよね。
 日本における中国人の地位と状況の一端を知ることができました。
(2010年11月刊。1400円+税)

 東京は神楽坂の路地にある小さなフランス料理店(ビストロ)で食事して来ました。初めにキールロワイヤルで乾杯します。シャンパンの泡立ちも爽やかで甘い香りが食欲をそそります。初めての店ですから、アラカルトではなく、コース料理を頼みました。フランスだとコース料理は食べ切れないほどのボリュームがありますが、ここは日本ですから、そんな心配はいりません。実際、最初のデザートまでちょうどいいボリュームでした。メインの肉は牛肉の煮込みです。舌にとろける美味しさです。ワインはブルゴーニュの赤です。一級のメルキューレそしてニュイサンジョルジュを選びます。味わいの良い、コクのある赤で食事がすすみました。食べ終って店の外に出たとき、マスターフランス語で少しだけ会話をして、フランスに住んだことがあるのかと尋ねられました。もちろん、お世辞とはいえ、ちょっぴりうれしく思いました。「シェ・ブルゴーニュ」というお店です。

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2011年2月23日

現代ロシアの深層

ロシア

著者: 小田 健、  出版: 日本経済新聞出版社
 
 ロシアが今どうなっているのかを知りたくて読みました。560頁もある、大部で、ずっしり重量感のある本です。ロシアの男性の多くが60歳までに亡くなって年金をもらえないという現実を知りました。そうなんです、ウォッカの飲み過ぎです。エリツィン元大統領も明らかにアル中でしたよね。ロシアの男性には、それだけ社会的ストレスがひどいようです。それでも、ソ連時代には戻りたくないのです。そして、一時はアメリカと資本主義(自由主義)に急接近していましたが、今ではロシア独自の道を自信もって歩いているようです。そして、この本を読んでロシアの軍隊は張り子の虎のような気がしました。初年兵のいじめが横行し、武器は老朽化しているようです。もっとも、今の日本では「ロシアの脅威」なるものは、右翼すらあまり言いたてなくなりましたね。
 プーチン大統領は、憲法の規定どおり2期8年で退任した。健康で支持率の高い最高指導者が憲法を守って任期をまっとうしたのは、ロシア史1000年のなかで初めてのこと。プーチン大統領の最後の記者会見(2008年2月)には内外の記者1364人が出席し、
4時間40分にわたって100問以上の質問にこたえた。うひゃあ、これはすごいですね。アメリカの大統領でも、これほど長くて大衆的なの記者会見はしていないんじゃないでしょうか。
 エリツィン大統領は、地方分権化に配慮して連邦の維持を図った。しかし、地方が連邦を軽視し、勝手気ままに統治したというのが実態だった。地方の首長がときに犯罪組織とつながって、文字どおりボス化し、封建君主のように振るまった。連邦法と地方の法律が相互に矛盾し、法体系が崩れた。
 オリガルヒとは、1992年以来のロシア資本守護の混乱の中で、法の未整備を巧みに利用して巨額の蓄財に成功し、エリツィン政権に癒着して、政治にも口をはさんだ一握りの成り上がりの事業家。オリガルヒが最高に力を持っていたのは、1995年から1998年にかけてのこと。プーチン大統領は、オリガルヒを弾圧し、政治への介入を封じた。次にプーチン大統領はエリツィン前大統領の「家族」の影響力を抑えた。プーチン大統領は、オリガルヒのあからさまな政治介入に歯止めをかけたが、オリガルヒを全滅させるようなことはしなかった。そこで、オリガルヒは富を増やし続けた。ロシアには1998年に10億ドル以上の資産家が4人しかいなかったが、2008年には110人にまで増えた。
今度は、シロビキがプーチン大統領の下で台頭した。シロビキとは、ソ連時代のKGBや今のFSBなどの特殊情報機関、内務省などの法執行機関、そして軍でキャリアを積んだ人たちを指す。なかでも特殊情報機関出身者の存在感が大きい。ロシアの支配層を調査すると、経歴にKGBあるいはFSBにいたことを明記していた人間が26%もいた。メドベージェフ大統領のもとでもシロビキが影響力のある地位に配置されていることに大きな変わりはない。
ロシアのマスコミは、たとえば1996年の大統領選挙で再選を目指すエリツィン大統領の支持率が3から4%と極端に低く、ジュガノフ共産党首に大きく水をあけられていたとき、エリツィン政権と一体となって傘下の報道機関を総動員してエリツィン大統領を盛り立て、逆にジュガノフ党首へのネガティブ・キャンペーンを展開した。このようにロシアの報道機関は報道の一線をこえて選挙運動に直接関与した。しかも、その裏には、ビジネス上の自己の利益を確保しようという意図があった。
2002年夏までに政府が主要な全国でテレビ網を手中に収め、オリガルヒによるテレビ支配は終わった。政府は、世論形成に大きな影響力をもつ全国テレビ放送局を事実上独占し、政府に都合のよい報道を垂れ流している。ええーっ、でも、これって日本でもあまり変わらないんじゃないでしょうか。それもきっと月1億円を自由勝手に使っていいという、例の内閣官房機密費の「有効な」使われ方の「成果」なんでしょうね。
ロシアでは、1992年から2009年4月までに50人もの記者が報道の仕事が理由で亡くなっている。うむむ、これはひどい、すごい現実ですよ。
 ロシアの軍隊では、毎年、暴行によって数十人が死亡し、数千人が肉体的・心理的な後遺症を負い、数百人が自殺を試み、数千人が脱走している。さらに、将校の関与する汚職事件が増えていて、5人以上が懲役刑の判決を受けた。
1990年代には、軍でも給与の未払い、遅配が起きた。軍人世帯の34%が最低生活保障水準を下回っていた。たとえば空軍では、新型機を1990年から一機も調達できていない、海軍の艦船の半分以上が要修理の状態にある。2004年に、バルト海におけるロシア軍の能力は、スウェーデンやフィンランドの2分の1ほどでしかない。ロシア軍は必要兵器の
15%しか保有しておらず、ロシア軍は紙の上だけで仕事をしている。これは、ロシア軍の参謀総長が2009年6月に演説した内容である。うひゃあ、そ、そうなんですか・・・・。
 ゴルバチョフ時代に原油価格が高ければ、ソ連は崩壊しなかったかもしれないし、エリツィン時代に原油高があれば、あの経済混乱はなかったかもしれない。プーチン大統領は幸運だった。原油高が強いプーチン大統領をつくった。
ロシアは世界的にみてきわめて汚職度が高い。ロシア経済の弱点のひとつは、インフラが脆弱なこと。
ロシアの平均的男性は、60歳という年金支給開始年齢まで生きられない。女性のほうは73歳ほど。ロシアの男たちが飲むのは、社会的ストレス、貧困、不安感などの要因が考えられる。しかも、ロシアでは麻薬常習者が急増し、300万人から400万人に達している。そして、その結果、エイズ患者も急増している。
 ロシア社会の大変深刻な状況がよく伝わってくる本でした。
(2010年4月刊。6000円+税)

 自宅に戻ると大型の茶封筒が届いていました。
 あっ、合格したんだ。そう直感しました。不合格のときはハガキで通知されます。封を開けると、真っ先に合格証書が目につきました。フランス語検定(準1級)の合格をフランス語と日本語で証明したものです。合格基準点22点のところ、34点を得点していました。やれやれです。年に2回のフランス語検定試験を受け始めて10数年になります。たどたどしくではありますが、フランス人と臆することなく話せるようにはなりました。引き続き勉強するつもりです。今年もフランスへ旅行したいと思っています。

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2011年2月22日

その後の不自由

社会

著者  上岡 陽江・大嶋 栄子、  医学書院 出版 
 
 大変勉強になり、また目を大きく開かせる本でした。
いい嫁をやりたい人ほど自分の子どもたちには我慢させて、夫の家族や親戚に尽くす。そのように真面目に嫁をやりすぎたら、突然、子どもが摂食障害になってしまったというケースは多い。
 家族のなかで、自分の子は二の次になってくる。その子たちは、自分のことはずっと我慢し、たえず他人(ひと)のことを優先させるという形で育つ。ところが、高校、大学を出たあたりで段々、身動きがとれなくなってしまう。
薬物やアルコール依存症の女性は、原家族のなかに問題があった例が多い。父のアルコール依存症や暴力、両親の不和などのため、家庭内に緊張感がある。
 家族のなかで、問題が大きかった人ほど、大人になってからも、しょっちゅう自分からトラブルのなかに入っていく。危ない男の人のところに行ってしまう。この人、いつも大変な目にあっているから、私が支えなきゃ、と思う。できたら、そのトラブルを自分がかかわる形で解決させたいと思うのだ。そのような人にとっては、日常が危険で、非日常が安全なのだ。攻撃と密着を愛情と勘違いして教えられてしまった人たちでもある。だから、ヤクザや暴走族のほうを安全と感じてしまう。
ニコイチの関係とは、相手と自分がぴったり重なりあって、二個で一つという関係のこと。このニコイチとDVは表裏一体の関係にある。相手と自分とのあいだに境界線がないときに暴力が出てくる。言葉じゃなくて、すぐに行動化するのは、言葉がつながっていない人たちだから。
相手が試すような行動をしているときに、「死ぬな!」と言ってやめさせようとするのは、ヒモの両端をお互いに引っ張りあっているようなものだ。ところが、身体の手当てをする行為によって、このパワーゲームから別のところへ行ける。自分の病気を受け入れると、回復とは回復しつづけることなんだということが分かってくる。回復するときに乗り越えるべきものがある。それは、変化することを受け入れられるかどうかということ。変化しつづけることが一番安定することなのだ。
 ところが依存症の人は、変化したくない。不安だから、今日のままでいたいと願う。回復には長い時間がかかる。回復とは、どこかに到達することではなく、むしろ変化しながら、より安定した暮らしを維持すること。だから、一つの機関、一人の援助者がずっとその過程を伴走できるとは限らない。むしろ、そんなことはきわめてまれなこと。自分の出来る支援を精一杯して、次の援助者にバトンを渡せばいいのだ。
眠いとか、おしっこしたいとかいう生理的要求というのも、実は、その表現の仕方を教えられて初めて表出できることなのである。
 専門職のなかには、グチを聞くことをひじょうにネガティブにとらえる人が多い。しかし、相談するというのは誰にとっても難しいことなのである。本人には、何が問題なのか分からなくなっている。グチを聞くのも、専門家の大きな役割なのではないか。心の痛みが静かな悲しみに変わるためには、数え切れないくらい同じ話を誰かに聞いてもらわないといけないのだ。
リストカットする(手首を切る)ような人には日常がない。普通の生活というのは、抽象的なものでしかない。だから、実際の普通ってこういうものだというように具体化することが大切。たとえば、料理や掃除が大事なのだ。
 回復途上の男性が働いて給料をもらうと、なぜか車やオーディオなど、不釣合いなくらい高価なものに多額のお金をつぎ込んでしまう。それは誰かと楽しむための道具というより、自分ひとりで満足するためのもの。そこには、他人とつながっている感じが希薄である。これは「ただ遊ぶ」という体験の乏しさの裏返しではないか。
 暴力に関していうと、被害者は加害者意識にみちて、加害者は被害者意識にみちていることがある。被害者は、「自分が相手に暴力をふるわせるようなことをしたのではないか」という罪悪感をもつ。そして、加害者は、「むしろ自分こそが被害者だ」という思いを抱いている。そして、意識だけでなく、実際に被害者が加害者であること、加害者が被害者であることもある。
 重い暴力、激しい暴力にさらされた人ほど、被害体験だけでなく加害体験をもっていることがある。まわりから、「客観的」にみれば加害者とみなされている人たちは、自分たちこそ被害者だと思っていることが多い。
 切迫した恐怖と焦燥感に転じる人を人間関係のテロリストという。人が集まって、なごやかに談笑する場面でマイナスの感情に支配され、その場をぶち壊すような発言をする。その現象を自爆テロと呼ぶ。その場をぶち壊すことには成功したが、自分自身も、その場に受けいれられるチャンスを失ってしまった。彼らは、いつも関係を壊そうとするエネルギーに満ちている。また、長く続けてきた関係を突然、切ろうとする。心からそれを望んではいないことが言葉ではなく伝わるか、次々と周りとトラブルと起こすし攻撃性を向けるので、次第にまわりから人がいなくなるし、援助者もそんな彼らから距離を置こうとする。すると、ますます人間関係のテロリストたちはいきり立つ。そして、自分たちに関心を向けてくれる人たちや手助けをしようとする人たちがようやく現れたのに、そこへ一気に「試し行為」のテロ攻撃を集中的に行う。
そんなとき、共感はするが、巻き込まれないという援助では、何もできない。一定の距離を置いたのでは、問題の核心に触れることができない。でも、これってなかなか難しいことですね。一人でしょいこまないようにするしかないのでしょうね。
セックス「依存症」の女性にとっては、セックスが快感というよりも、相手から一瞬でも必要とされる存在である自分を確認する行為なのである。その背景には、度重なる被害体験のなかでできあがってきた自己肯定感の低さがある。
小児ぜんそく、摂食障害、アルコール依存症という自分の体験にもとづくアドバイスなので、とても説得力があります。250頁、2100円の本ですが、価値ある一冊です。
(2010年9月刊。2000円+税)

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2011年2月21日

たかがハチ、されどミツバチ

生き物

著者 桑畑純一 、出版 鉱脈社 
 団塊の世代の著者が定年過ぎてから日本ミツバチを飼い始めたのです。さてさて、うまくいくことやら…。ところがどっこい、うまくいったようです。たくさんのミツバチたちが楽しく生き生きと働いている様子が写真で伝わってきます。
 ハチの寿命は60日。人間と比べると一日を一年として働いている。60日が定年であり、還暦であり、また寿命でもある。ハチは一日たりとも無駄にはできない。
 休む間もなく一日中働いても、ハチは生き生きと楽しそうである。天気の良い日には活発に何回でも外に出かけるが、雨の日や寒い日には機嫌が悪い。ミツバチは集団で生活し、社会を構成する賢い昆虫である。
 ハチの分封。女王バチが半分の仲間を引き連れて、巣から出ていく。この一大事業も、実は女王バチが引き連れていくのではなく、働きバチが新しい女王バチにすみかを譲って出ていくことを旧女王バチに催促している。
 人間にとっての経済効率は西洋ミツバチの方が優れている。 しかし、日本ミツバチは性質がおとなしく、寒さに強く、病気にも強い。ただ、住み心地が悪いと逃亡する。できるだけ箱にさわらず、刺激を与えないのが第一。
 ハチ毒はガンの予防効果があるという。養蜂業者のガン発生率は他業種に比べてとても少ない。うひゃあ、そうなんですか。ハチに刺されても痛いだけではなくて、いいことがあるんですね。
 日本ミツバチの蜜は、西洋ミツバチとは比べものにならないくらいのに濃くて美味である。 日本ミツバチは西洋ミツバチが特定の花から蜜を集めるのに対して、百花蜜と言われるように木の花を主として何の花からでも集めてくる。昼間は蜜を集め、夜は集めたばかりの水分の多い蜜を、羽を振るわして糖度を上げる作業に従事している。
 日本ミツバチの行動範囲は2キロから3キロほど。一匹の日本ミツバチが一生に集める量は、小さじ一杯程度でしかない。
 ミツバチ社会は徹底した年功序列で、リストラもない終身雇用社会である。働きバチは生まれてから20日のあいだは幼虫、さなぎとして巣穴で暮らし、先輩働きバチの運んでくる蜜や花粉をもらって、その保護のもとに成長していく。
20日を過ぎると、巣穴から出てきて、一人前のハチの格好をしているが、すぐには巣箱から出ることはしない。まずは巣穴を掃除し、巣穴にいる赤ちゃん世話をする。そのあと蜜を倉庫に貯める倉庫係、そのあと門番の役目をする。門番は敵を見分けて、戦わなければならない。そして、ついに蜜や花粉を集める外勤となり、働きバチとして一生を終える。働きバチは一匹だけ飼ってもすぐに元気がなくなりせいぜい2、3日しか生きていけない。ハチって、あくまでも集団の中でしか生きていけない生き物なんですね。
わが家の庭にも、たくさんのミツバチがやって来ますが、日本ミツバチなのか、残念ながら見分けがつきません。でも、ミツバチが花をめぐってせっせと働いている姿は見飽きることがありません。
(2010年3月刊。952円+税)

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2011年2月20日

白日夢、素行調査官2

社会

著者 笹本 稜平、   光文社 出版 
 
 このコーナーでは久しぶりに紹介する警察小説です。潜入捜査員が自死を選ぶ場面から始まります。ええーっ、このあと、どんな展開になるのだろうという大いなる期待を込めて序幕が上がります。
 警察という役所は、実は隠れた利権の巣密だ。うしろ暗いことをやっている連中は警察が握っている情報が気になるから、それが手に入るなら、いくらでも金を払う。マル暴(暴力団)からみの部署ともなれば、得意先の業界とは持ちつ持たれつだ。便宜を供与すれば見返りがある。暴対法が施行され、理屈から言えば広域暴力団は壊滅していいはずなのに、大半が今も立派に生き残っているのをみれば、その癒着のほどは想像がつく。なーるほど、そうなんですねー。警察の裏金づくりは、いつのまにか曖昧になってしまいました。マスコミが報道しなくなったのは、警察の裏金作りをスクープとして連載した北海道新聞が警察の仕返しに負けたからだという人がいます。きっとそうなんでしょうね・・・・。
 パチンコ機やパチスロ機の検定を委託されている協会(保通協)は警察トップの天下りの受け皿で、前会長は元警察庁長官、元会長は前警視総監だ。そこがパチンコ業界の首根っこを押さえているわけだから、OB、現役を問わず、この役所の官僚たちが業界から甘い汁を吸っているのは間違いない。警察庁が指定したパチンコやパチスロの用のROMを扱う業者、プリペイドカードの業者も警察官僚の天下りの受け皿だ。たとえ正義感や使命感に燃えて入庁しても、その後の出世競争が人の性格を変えていく。それ以外のことが眼中にないほど集中しないと、あっという間にふるい落とされる。官僚としての職務より出世競争が優先する。それだけシビアな競争社会だ。いくつかある派閥のどこに属するかその選択を一つ誤れば、一生、冷え飯を食わされることになりかねない。
警察を取り締まる警察はないんだ。人事の監察といえども警察内部の一部署に過ぎない。自分たちこそ警察のなかの警察だと見得を切ったところで、警察機構の巨大なピラミッドのなかで発揮できる職権は高が知れている。そのことを思い知らされた。
こんなセリフが登場します。ふむふむ、恐ろしい現実ですね。
 キャリア警察官の腐敗が追及すべき一つのテーマとなっている本でした。
(2010年10月刊。1700円+税)

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2011年2月19日

聖灰の暗号

ヨーロッパ

著者 帚木 蓮生、   出版 新潮社
 いやはや、なんと・・・。すごいんですよ、巻来の主要参考文献はフランス語の原書のオンパレードです。さすが仏文科卒だけはあります。私もフランス語を長らくかじっていますが、残念ながら日常会話に毛のはえた程度のレベルでしかありません。著者はフランス語で書かれたカタリ派についての専門書を読み尽くして、この本を書きあげたようです。
 主人公はフランス語だけでなく、方言のオクシタン語まで読み書き、そして話せる日本人です。著者もひょっとしてオクシタン語までできるのでしょうか・・・。
 14世紀のフランス。スペインに近い南フランスにはカタリ派が流行していました。宗教的権威をひけらかすローマ・カトリック教会に楯ついたため、大弾圧を受けることになります。
 私が3年前に行った南仏のツールーズやアルビなどがカタリ派の拠点となっていました。今も原型をそっくり残っているカルカッソンヌ城もカタリ派の拠点でした。ロートレックの生地であり、立派な美術館のあるアルビでもカタリ派が繁栄していました。カトリック教会が形式に流れていたのを、信仰の原点に立ち戻って信仰していた人々がいたわけです。
 この本は、日本人の研究者がカタリ派の弾圧を目撃した修道士の手記を偶然に発見して学会で発表したところ、そんなことは隠しておきたいカトリック教会側から迫害を受けるというストーリーです。 さすがに、生々しい迫力があるタッチで展開していきます。次はどうなるのか、手に汗を握る場面の連続です。1年に1作という著者の小説づくりは、いつ読んでも驚嘆するばかりの見事さです。
 カタリ派の興亡は、天草の乱、そして日本の隠れ切支丹を連想させるものがあります。
 我が身がどんなに拷問されても、神のもとに近づけると思って喜んで死んでいくという点では、まったくうりふたつです。
 上下巻2冊を、時間を惜しんで読みふけってしまいました。
 
(2007年7月刊。1500円+税)

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2011年2月18日

龍馬史

日本史(江戸)

著者  磯田 道史、  文芸春秋  出版 
 
 坂本龍馬が暗殺されるにいたった幕末の情勢がきわめて明快に語られています。なるほど、そうだったのかと、私は何回となく膝を叩いたため、膝が痛くなったほどです。
坂本龍馬の生家は、高知県城下でも有数の富商である才谷(さいたに)屋から分家した、郷士(武士身分)の家柄だった。
 才谷屋は、高知のトップ銀行に匹敵する実力を持っていた。豪商・才谷屋は、6代目八郎兵衛直益のときに郷士株を手に入れ、長男が分家して郷士坂本家が誕生した。坂本家の屋敷は500坪の広さがあった。これは、500石クラスの上級藩士の武家屋敷に匹敵する広さだった。
江戸時代、武士でないものが武士になるのは、それほど難しいことではなかった。郷士の養子となるか、藩に御用金を献上して郷士株を入手する。後者のルートで郷士となったものを献金郷士と呼んだ。
坂本龍馬は、上士に比べれば差別的扱いをうける郷士の出身だったが、その分、お金には不自由しない富裕層だった。なーるほど、だから亀山社中という商社の発想がありえたのですね。
 城下にいる兵農分離された武士は、おとなしく明治新政府の方針に従ったが、兵農分離していない、みずから土地経営をしていた郷士たちは、自分たちの特権や土地経営がなくなるという危機感から激しく抵抗した。
 龍馬は、家督を継げない次男だったので剣術で名をあげようと考えた。だから、江戸で剣術道場に入門したのですね。
坂本龍馬は、誰よりも早く海軍の重要性を理解し、しかも実際に海軍を創設してみずから船を動かして実戦をたたかった。この点が、むしろ過小評価されている。
龍馬は志士として活動するときには才谷姓を名乗った。龍馬は、薩摩藩の要望にこたえたて、独自の海軍をたちあげるために、1865年(慶応元年)、長崎に亀山社中という商社をおこした。亀山社中の経営者は龍馬であり、そのオーナーは薩摩藩だった。
後藤像二郎は土佐勤王党を弾圧した側だったが、龍馬と意気投合して、脱藩の罪を許して、土佐藩支配下の海援隊の隊長に任命した。
寺田屋事件で龍馬は危うく幕府役人に捕縛されそうになった。最近、そのときの報告文書が発見され、幕府は薩摩と聴衆の同盟を仲介していた龍馬を要注意人物とみていたことが判明した。
 龍馬暗殺の下手人は京都の見廻組であって、新撰組ではない。見廻組は旗本や御家人の子弟を中心とする組織であり、浪士の集まりである新撰組より地位が高かった。
 見廻組は変装された密偵を龍馬の下宿に張り付かせていた。龍馬に致命傷を追わせたあと、さらに34ヶ所も滅多突き突多斬りの状態にした。そして、襲撃犯たちは追撃戦を恐れて、一かたまりとなって帰っていった。この見廻組に命令したのは京都守護職の松平容保(会津藩主)である。そして、会津藩公用人の手代木勝任(てしろぎかっとう)が手配していた。幕府にとって龍馬はいかにも危険な存在だから、抹殺してしまおうということだった。なるほど、なるほど、そうだったのですね。
龍馬の人間としてのスケールの大きさを実感できる本でもありました。とても面白い本です。一読をおすすめします。
(2010年9月刊。1333円+税)

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2011年2月17日

毛沢東(下)

中国

著者 フィリップ・ショート、   白水社 出版 
 
 1941年、国共合作は緊張関係にあった。1940年秋の百団大戦によって日本兵2万6千が死傷し、抗日戦争で共産党軍は大きな成果をあげた。そのため蒋介石は共産党を警戒し、国民党軍に共産党新四軍を奇襲攻撃させた。しかし、この窮地にあっても、共産党は統一戦線策は放棄できなかった。そのおかげで、紅軍(共産党軍)は5万人から
50万人へと発展していった。
1943年から44年にかけて、周恩来は辛い状況に置かれていた。毛沢東は周恩来に対して実績と信念の欠落、権力ある集団に振りまわされやすいことを激しく批判した。
 1946年から1950年にかけて、紅軍(人民解放軍)は国民党の軍勢に押されて後退を強いられた。しかし、1947年2月には、毛の戦略によって国民党軍218旅団のうち50以上が戦闘力を失い、投降した国民党兵のほとんどは共産党軍に吸収され、人民解放軍の新たな人的資源となっていた。
 国民党軍の司令部には共産党のスパイが入りこんでいた。副参謀長も、戦時計画委員会の責任もそうだった。ここが中国共産党のすごいところですね。ベトナムでも、南ベトナム軍の中枢に「北」のスパイが潜入していました。激烈な戦争は隠れた英雄を生み出すものなのですね。
 1949年10月1日、北京の天安門広場で、毛沢東は中華人民共和国の設立を宣言し国家主席に就任した。ところで、その前、スターリンは毛沢東に対して、長江を渡らないこと、中国の北半分を掌握したら満足するように言っていた。アメリカを刺激しないためにはそれが賢明だと説明した。しかし、中国が分裂するのはロシアの利益のためだと毛沢東には分かっていた。
 1950年に始まった朝鮮戦争は、毛沢東の歓迎したものだった。金日成とは相互に不信感があった。
毛沢東は中南海にいて、身辺警固のため警衛兵が三重に円を描くように配置されていた。食材は指定された安全な農園から提供され、毛の口に入る前に毒味されていた。お抱え医師がいて、移動するときには、事前の十分な偵察なくしてはありえなかった。装甲を施した専用列車で旅行し、飛行機には滅多に乗らなかった。台湾の国民党軍の破壊工作や砲撃を恐れていたからである。
 1959年、大躍進政策の誤りを批判した彭徳懐が失脚した。しかし、毛沢東にしても、朝鮮戦争の英雄でもある彭徳懐を切り捨てるのは容易なことではなかった。
1965年、毛沢東は巻き返しを図りはじめた。正面からの攻撃はできないので、お得意のゲリラ戦術でいった。毛沢東が共産党そのものに対して大衆をけしかけようと決めていたなど、あまりに荒唐無稽であり、政治局の誰一人として信じられなかった。そうなんですね、そのまさかが自分たちの災難になって降りかかったわけです。
 紅衛兵の指導者たちがやったことは、毛沢東自身がAB団の粛清をしたときと同じことだった。
 1967年、中央政治局は機能を停止した。毛沢東は多人数が団結して毛沢東の敵にまわってしまう危険を避けたかった。そこで政治局のかわりに常務委員会や周恩来が率いることになった文革小組の拡大会議を開くことにした。
 林彪が中国人民解放軍を完全に掌握することはついになかった。500万人という規模があり、指揮系統と昔からの忠誠をそれぞれに備えたさまざまな根拠地からの成り立ちのせいで、毛沢東以外の誰にも中国軍をコントロールすることは出来なかった。
毛沢東は強い不信感のせいで、絶えず取り巻きグループの忠誠を確かめないと気がすまなかった。周恩来が生き残ったのは、毛沢東の信頼を保つためなら誰でも裏切ったからだ。毛沢東は周恩来に親愛の情を抱いたことは一度もなかったし、周の死に対しても心動かされた様子を示していない。中南海の職員に対して黒い喪章を腕につけることを禁じた。 
毛沢東の実際にかなり迫っている本だと思いました。
(2010年7月刊。3000円+税)

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2011年2月16日

ノモンハン戦車戦

日本史

著者  マクシム・コロミーエツ、   大日本絵画 出版 
 
 1939年5月から9月にかけて、モンゴルとの国境付近で日本軍(関東軍)がソ連軍(赤軍)と正面から戦って惨敗したのがノモンハン事件です。この本は、その地上戦における戦車部隊を中心として戦争の推移を追っています。この本とは別に、『ノモンハン航空戦』という本も出ていますので、追ってご紹介します。
 モンゴル人民共和国と満州国とのあいだの国境はきわめてあいまいだった。全長40キロの国境には、国境標識がわずか35個しかなかった。自然境界もハルハ河とボイル湖を除いてはなく、水域に関する合意もなかった。双方ともお互いに譲らず、外交的な解決は望んでいなかった。ノモンハン戦の原因は満蒙国境の曖昧さと双方が交渉を望まなかったことにある。
 5月の時点では、制空権は完全に日本軍航空隊が握っていた。ソ連軍のパイロットたちの訓練度は低く、中国戦線で経験を積んだパイロットが多い日本軍航空部隊に立ち向かうことはできなかった。
 5月の戦闘は、ソ連軍部隊の訓練に深刻な欠点のあることを暴露した。それは、何より偵察と部隊の指揮統制・通信の面で顕著だった。各種部隊間の相互連携もうまく組織されていなかった。
 1939年6月、ジューコフが第57特別軍団長に就任した。それまでのジューコフには戦闘経験はなかった。ところがジューコフは、前任の軍団幹部らをスパイと決めつめ、「人民の敵」として一掃した。過去に戦闘経験のないジューコフはいきなり砂漠と草原という特殊な条件下で人的・物的損害を惜しまない物量戦を展開した。それは前線の将兵に不評だった。
 日本軍の戦車第4連隊長の玉田大佐は、ソ連の兵器は性能が優れており、敵は機敏で粘り強く、士気も高い。敵の資質は予想よりはるかに高いことを悟った。ソ連軍の砲撃はあまりに強力かつ効果的で、日本軍が中国で経験したことのないほどのものだった。7月の戦闘を総括して玉田大佐はソ連軍に高い評価を与えた。
「敵の戦意を見くびるべきではない。彼らは組織、物質、戦力において明らかに我が方を上回っている。白兵戦になっても退却しようとせず、一部には手榴弾で自爆する者もいた」
 ソ連軍は、ノモンハンにおいて日本軍の損害は最大5万5千、そのうち2万3千が戦死したと見積もった。関東軍の公式報告によると、出動したのは7万5千で、戦死は8632人、負傷9087人としている。他方で、ソ連軍は、戦死9703人、負傷1万6千人となっている。
 ノモンハン戦でのソ連赤軍の勝利に決定的な役割を演じたのは間違いなく戦車部隊だった。ソ連指導部は、ノモンハン戦において日本軍の精強さに甚大なショック受け、ドイツ軍の対ソ侵攻作戦が開始されてなお、赤軍の最強兵力を極東方面に残留させていた。
 ジューコフ元帥は、第二次大戦でもっとも苦戦したのはハルヒン・ゴール(ノモンハン)だったと吐露したほどの激戦だった。
 停戦協定が結ばれたあと、関東軍代表団は遺体をどれだけ回収したいか、その数字をあげたがらなかった。それが公式に認める損害となることを嫌ったからである。10日間の痛い回収作業によって、日本軍は6281人の遺体を収容し、38人のソ連軍将兵の遺体をソ連側に引き渡した。
ノモンハン戦の地上における戦いの様子の一端を多くの写真とともに明らかにした冊子です。
 
(2007年9月刊。2500円+税)

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2011年2月15日

国民のための刑事法学

司法

著者  中田 直人 、  出版 新日本出版社
 
 戦前、戦後の司法制度の歩みがよく分かる本です。
 戦前の日本では、検事のほうが裁判官よりも実質的な地位は高かった。裁判官の人事権を握っているのは司法省である。だから、裁判官から検事になって司法省に役人として勤めるほうが出世は早かった。司法大臣の中には検事総長出身者がたくさんいた。しかし、裁判官出身者は一人もいない。裁判官は検察官出身者によって握られていた。
 日本の裁判所の中には、戦前もそのような司法省支配による裁判のあり方に抵抗し、裁判官の独立をかち取る必要があると考えて研究していたグループがあった。これが「さつき会」である。戦後、HGQのオプラー法制司法課長は「さつき会」の人たちと接触しながら司法制度の改革をすすめようとした。しかし、オプラー課長は「さつき会」の力を過信していた。「さつき会」は非公然のグループであって、当時の裁判官たちの広い支持を得ていなかった。むしろ、裁判官層は猛烈に反発した。
「さつき会」がかついだ細野長良・大審院院長に対しては猛烈な反発があり、細野氏は戦後の最高裁判事の推薦名簿にも載せられなかった。このとき、反対派は謀略的なニセ電報まで打って細野氏とその一派を引きずりおろした。そのなかで三淵忠彦という初代の最高裁長官は選ばれ、司法省の役人の経験者が最高裁事務総局に流れ込んでいった。
最高裁事務総局が今日に至るまで全国の裁判官の人事を統制しています。配置から給料から、すべてを決めて一元支配しているというのも恐ろしいことです。
 もっとも、最近では、あまりに統制が効きすぎて、現場の裁判官たちが自分の頭で考えなくなってしまったという反省も出ているようです。ですから、むしろ最高裁判決の方が時代の流れに敏感な、大胆判決を出すことも数多く見受けられます。
 裁判は公正であるという幻想が、裁判の作用をいっそう狭いものにしようとする。これらが相互に影響しあって、裁判官が真実と正義の要求に目を向けることを妨げる。世論を作り出すことは、この妨げをまず除去することである。しかし、世論は、やがて裁判官を動かす主要な要素に転化する。
個々の裁判官は、大衆運動なんかには影響されないぞ、自分の知恵と学識と両親によって判断したんだと、個人的な意識のうえでは、それなりに自負しているに違いない。裁判官の置かれている現実世界の広さ(むしろ狭さ)に目を向けたい。大衆的裁判闘争こそが、そうした現実世界を変革する。大衆的裁判闘争は、世論を新たにつくり出す以外に公正な結果を得ることができないという客観的情勢があるとき初めて必要となり、また可能となる。裁判闘争はすべて大衆運動に訴えるべきものでもなく、また、そのように発展するものでもない。大衆的裁判闘争は、裁判所を物理的に包囲したり、裁判官個々に威圧を加えたりはしない。
裁判官も人間である。人間を動かす力は、人間による人間としての批判である。裁判官の弱さ、その世間の狭さによって、裁判における予断と偏見が生まれる。
裁判官だけでなく、どんな人でも、自分のやろうとしていることについて多くの人が関心を寄せていることを感じると必ず、これは一生懸命にやろう、誰からもケチをつけられないよう、批判に耐えられるようなしっかりしたことをやろうと思う。これは人間の心理として当然のこと。たくさんの投書が裁判所に届き、書記官がもってくる。ほとんど読まない。それでも、なるほど、これだけ関心を持たれているんだったら、きちっとしっかりした裁判をしなきゃだめだという気持ちになる。そんなプラスの効果をもっている。
誤った判決をだす裁判闘争のなかで署名を広く集める運動の意義は決して小さくないことが分かります。
メーデー事件、松川事件、狭山事件などの戦後の裁判史上あまりにも有名な事件の弁護人としての活動、さらには公安警察のスパイ行動を裁く裁判にも触れられていて、大いに学べる本となっています。若手弁護士の皆さんにとくに一読をおすすめします。
(2011年1月刊。4000円+税)

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2011年2月14日

ある小さなスズメの記録

生き物

著者 クレア・キップス、  文芸春秋  出版 
 
 不思議なスズメの話です。戦前のイギリスで実際にあった物語なのです。芸をするスズメ、トイレット・トレーニングを受けたわけでもないのに室内でベッドを汚さないスズメ、そして歌うスズメの話というのです。まさか、まさかの連続です。
 1940年7月1日、自宅の玄関前に生まれて数時間後、丸裸で目も見えていない瀕死の仔スズメを発見。まさか助かるまいと思いつつ、温かいフランネルに包んで介抱すると、やがて生き返った。ところが、この仔スズメは、右翼が正常でなく、飛べないのです。左足も正常ではありませんでした。だから、著者はスズメを飼い始めます。なんと、12年間も・・・・。ええっ、スズメって犬と同じほど長生きするのですね。私は、スズメの寿命は2年から3年だと思っていました・・・・。
 スズメは著者(女性)のベッドで同じ羽毛布団のなかで眠ります。首のところにぴったり寄り添って寝るのです。そして、ベッドを汚すことはしませんでした。
 賢い鳥は、決して自分の巣を汚さない。いやはや、すごいことです。
 スズメは著者の言ったことを、その声の調子でだいたい理解していた。
 鳥は嗅覚を持たないと言われているが、このスズメはタマネギの風味だけはひどく嫌がった。
 スズメのお気に入りのおもちゃは、ヘアピンとトランプの札、マッチ棒だった。何時間もそれを籠の中で運んで回っていった。
 スズメは、人々の前で芸を披露した。著者とヘアピンで綱引きをする。くちばしでヘアピンをしっかりとくわえて力の限り引っぱる。トランプのカードをくちばしにくわえて、10回ほど、落とすこともなくぐるぐると回し続ける。
 スズメにはクラレンスという名前がつけられた。しかし、スズメは坊や(BOY)という呼びかけのときだけ返事するのだった。自分の名前も本人が選んだというわけです。
 スズメは歌を歌った。荘重で印象的な出だしに始まり、次第に調子を力強くしていき、やがて火を吐くように熱烈なクライマックスへと高まっていく。八分音符のリトルで始まり、その後高く甘く、哀切に満ちた音色が続く。
 スズメは心臓の病気をもち、便秘になった。そして、治療薬の変わりにシャンパンを飲ませられた。ティースプーンに入ったシャンパンを少しも嫌がらずに飲んだ。うひゃあ、なんとなんと、そんなことが・・・・。
 12歳になってから、このスズメは老衰によって死亡しました。すごいスズメがいたのですよね・・・・。わが家に棲みついているスズメは、最近あまり姿を見せなくなり、心配しています。スズメの棲める純和風の家が少なくなったことも影響しているとのことです。それにしても面白いスズメがいたものですね。
 
(2010年12月刊。1429円+税)

 先週の水曜日、日比谷公園を歩いてきました。バラの木が剪定され裸になっていました。花の少ない季節で、葉ボタンと黄色のパンジーの花くらいしかありません。大型カメラを構え、池のあたりを狙って風景写真をとろうとしている男性を何人も見かけました。カメラ同好会の人たちなんでしょうね。そのそばに猫が寝そべって陽だまりを楽しんでいました。
 ミュプレヒコールが聞こえてきました。年金の切り下げ反対という威勢のいい女性の声です。本当にそうですよね。消費税率の値上げが既定方針のようにすすめられていますが、年金こそ引き上げてほしいものです。年金受給年齢が近づいてきた私も同じように叫びたいと思いました。年金者組合の人たちが叫びながらデモ行進に出かけるところでした。

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2011年2月13日

北斎漫画を読む

日本史(江戸)

著者 有泉 豊明、    出版 里文出版
 ヨーロッパでもっとも知名度の高い日本人は、葛飾北斎だと書かれていますが、本当でしょうか・・・?
 北斎に『北斎漫画』という全15編(冊)の画集があったなんて、知りませんでした。今では、北斎というと『冨獄三十六景』のほうが有名ですが、江戸時代には、『北斎漫画』も同じほど人気を集めていたというのです。
 この『北斎漫画』には、当時の人々の好みの粋(いき)や、戯(おどけ)、知的ユーモアがふんだんに用いられている。
 マンガ(漫画)という言葉は、北斎が『北斎漫画』で初めて用いた言葉である。当時、「漫筆」という言葉があったので、それを応用してつくった言葉と思われる。
 今では世界で通用するマンガというのは、なんと江戸時代に北斎がつくった言葉だったのですね・・・。
 北斎漫画は、知的レベルがかなり高いものです。平和で道徳的レベルの高い、粋(いき)で洒落(しゃれ)や滑稽を好む、教養の高い当時の民衆に向けて発せられた作品であり、現代の漫画のルーツである。ふむふむ、そうなんですか・・・。
 『北斎漫画』は、文化11年から文政2年の5年の間に刊行された。
 「龍の尾で・・・絃(げん)を解(と)く」で劉備玄解くとなる。というように、「三国志演義」が大人気であることを前提とした絵が描かれている。
 そうなんです。私などは、いちいち絵のナゾを解読する文章を読んで、やっと意味が分かりますが、当時の江戸人は、それを一人で理解してニンマリしていたというのです。実にハイレベルの絵です。
 このころの江戸人のさまざまな顔の表情が活字されています。あまりにもよく出来ていて、現代の日本人にも、いるいるこんな顔の人がいるなと思わせます。さすがに、たいした描写力です。
 あとがきに、「北斎漫画はこんなに面白い本だったのだ」と書かれていますが、まさしくそのとおりです。そのうち、現物を手にとって眺めてみたいものだと思いました。
(2010年10月刊。1800円+税)

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2011年2月12日

モスクワ防衛戦

ロシア

著者  マクシム・コロミーエツ、   大日本絵画 出版 
 
 ナチス・ドイツ軍がスターリンを不意打ちにして電撃的に侵攻して、モスクワまであと一歩のところまで迫りました。このモスクワ防衛戦はロシア大祖国戦争のなかで格別の位置を占めています。
 1941年9月30日から翌1942年4月20日までの6ヶ月以上にわたって展開したモスクワをめぐる戦争である。そこに投入された独ソ両軍兵力は、将兵300万人、大砲と迫撃砲2万2000門、戦車3000両、航密機2000機。戦線は1000キロメートルをこえて広がった。この本は、1941年までの初期の戦闘状況のなかで戦車戦に焦点をあて、写真とともに紹介しています。
 赤軍の戦車部隊がモスクワ防衛戦で演じた役割はきわめて大きい。ドイツ軍攻撃部隊に相当の損害を与えた。しかし、ソ連軍の戦車部隊の活動には多くの否定的な側面もあった。戦車部隊の司令官は配下部隊を指揮する経験が浅く、熟練した人材が不足していた。そのため、戦車は練度の低い戦車兵が操作・操縦し、戦車の回収と修理部隊の作業も十分に効率的とは言えなかった。
 また、上級司令部が偵察も砲兵や歩兵の支援もなしに戦車を戦闘に投入することも少なくなかった。これは人員の兵器の損害をいたずらに増やすことにつながった。
 ドイツ軍の司令部の報告書にも同旨の指摘がなされている。
「戦車搭乗員は、士気のたかい選抜された者からなっている。だが、このところ良く教育された、戦車を熟知している人材が不足しているようである。戦車自体は優秀である。装甲もドイツ製のものを上回っていて、良質な近代兵器と特徴づけられる。ドイツの対戦車兵器はロシアの戦車に対して十分効果的ではない。
 兵器・装備が優秀で、数量も優勢であるにもかかわらず、ロシア人はそれを有効に活用できていない。部隊指揮の訓練を受けた士官の不足に起因するようである」
 指揮官の不足はスターリンによる軍の粛清の影響が大きかったのでした。まったくスターリンは罪つくりな人間です。
 赤軍のT-34戦車、そして戦車兵の顔がよく分かる写真に見とれてしまいました。
 先に紹介しました『モスクワ攻防戦』(作品社)が全体状況は詳しいのですが、視覚的にも捉えたいと思ってこの本を読んでみました。
(2004年4月刊。2000円+税)

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2011年2月11日

だまし絵のトリック

人間

著者  杉原 厚吉、  化学同人 出版 
 
 人間の目は簡単に騙せるものなんですよね。たとえば、エッシャーの不思議な絵を見て、思わずこれはどなっているのだろう・・・・と、謎の世界に引きずりこまれてしまいます。
 無限階段という絵があります。階段が口の字型につながっている。この階段を登っていくと、いつのまにか元の場所に戻っている。登り続けても、同じところをぐるぐる回るだけで、終わりがなく無限に登り続ける。
この本の著者は、だまし絵に描かれている立体は本当につくれないかという疑問に挑戦しています。これが理科系の頭なのですね。そして、方程式を編み出し、コンピューターを使って作図するのです。たいしたものです。偉いです。どんなひとなのか、末尾の著者紹介を見ると、なんと私の同世代でした。大学生のころ、すれ違ったこともあるわけです。すごい人だなあと改めて感嘆したことでした。
 だまし絵の作り方がいくつも解説されています。簡潔なだまし絵ほど美しい。うむむ、なるほど、そうですね・・・・。
 人は写真を見たとき、そこに奥行きの情報はなく、タテと横だけに広がった二次元の構造であるにもかかわらず、欠けた奥行きを苦もなく知覚でき、旅の思い出にふけることができる。それは、人が生活の中で蓄えた、立体と画像の関係に関する多くの手がかりを総合的に利用して、奥行きを中断しているためと考えられる。だから、だまし絵の錯覚は生活体験をたくさん踏んで、立体とその絵の関係をある程度理解してからでないと起こらない。小学校に入る前の子どもはだまし絵を見ても不思議がらない。このくらいの年齢の子どもは、ピカソの絵のようにつじつまのあわない絵を平気で描くことができる。
 うむむ、そういうことなんですか・・・・。なるほど、ですね。
 著者は2010年5月に、アメリカへ行って、錯覚コンテストなるものに参加し、優勝したそうです。そのときの映像がユーチューブで見れるというので、私ものぞいてみました。不思議な映像がたしかにありました。ピンポン玉のような球体が坂道をのぼっていきます。同じ平面にあるのに、その窓を横から一つの棒が貫くのです。とてもありえない映像なのですが、謎ときがされていて、なーるほど、なーんだ、そうだったのか・・・・という感じです。
 エッシャーの絵を方程式とコンピューターで解説するなんて、その発想に頭が下がりました。
(2010年9月刊。1400円+税)

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2011年2月10日

FBI式、人の心を操る技術

著者 ジャニーン・ドライヴァー、  出版 メディアファクトリー新書
 人間の何気ない仕草に、実はその人の心の動きがあらわれている。なるほど、そうなのかなあと思う指摘がいくつもありました。
嘘の得意な人間は、たいてい相手の目を見続けることも得意だ。嘘つきは目を見ないというのは誤解だ。そうなんですね。まったく油断も隙もありません。
 それより大事なことは、相手がいつもとは違った動きをした瞬間を見逃さないこと。
恐怖に飲み込まれそうなときでも、自分のホンネ以上の自信をかもし出す訓練をする。これが利益をもたらす。本物の自信が身につくまでは、自信のあるふりをしている。これが大切だ。なるほど、そういうことですか・・・。
 友好関係を築くのにもっとも大切な感情は、共感だ。求められるのは、他者の言葉に真摯に耳を傾け、その価値観を理解し同じ感情を持つことのできる能力。これがあると、やがて相手も自分を尊敬するようになり、さらに大切な信頼関係が生まれる。うむむ、これって大切な指摘ですよね。私もそうだと思います。
 会って最初の7秒で第一印象は決まる。自己紹介は必ず強く。名前を皆に覚えてもらえるように、はっきり言う。それも1回だけでなく。
 相づちを打つのは、ほどよく、心を込めて。へその向きが、その人物の意志を読みとくときの最も重要な要素である。
人は不快感や不安を感じたとき、本能的に局部を隠す「イチジクの葉」のポーズをとる。身体のどこかとどこかを触れあわせる行為は精神的なストレスが高い場面で自分を落ち着かせようとして、無意識に行っているケースがほとんどだ。自分を触る仕草は、緊張、自信の欠如、あるいは退屈を示すシグナルだ。自分自身をなだめたり、落ち着かせるためにとる行動なのだ。 自分を触る仕草をしないように心がけること、それだけでも集中力が高まり、鋭敏になる。
相手が度を超した怒りを見せ始めたとき、言葉や肉体による暴力を受ける危険を感じたら、目をそらすこと。腹部やノドや局部を隠し、体を小さく見せる。自分からは話しかけない。そして、ゆっくりと出口へ向かう。どうしてそこまで怒り狂っているのかを尋ねてはいけない。怒るのは間違ったことだと理路整然と諭してもいけない。その時点で、相手は理性的に考えるのが不可能な状態にあるのだから。
他人の理不尽な怒りに出会ったら、何より自分の安全を優先しなくてはいけない。
ふむふむ、なるほどなるほど。いろいろ参考になる指摘がありました。FBIというんだから、うさん臭い。そう思わないで読んでみました。とても実践的で大切な指摘が満載の本でした。
(2010年7月刊。740円+税)

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2011年2月 9日

戦場の街、南京

日本史

著者  松岡 環、  出版  社会評論社
 1937年に日本軍が南京で大虐殺事件を引き起こしたのは歴史的な事実です。それがあたかもなかったかのように主張する日本人が今なおいるのは残念でなりません。虐殺された人が正確に30万人なのかどうか、私にはよく分かりませんが、いずれにしても何万、何十万人という罪なき人々を日本軍が次々に殺戮していったことは、多くの日本軍兵士がつけていた日誌によっても裏付けられています。
 この本は、そのような日誌のいくつかを掘り起こし、中国側の記録と照合しています。
 著者は、12年間に日本軍の元兵士250人以上を訪ねて歩いて証言を聞取っていったとのことです。大変な苦労があったと思います。加害者が生の事実をありのまま素直に語るとは思えないからです。
 多くの日本兵士が日記をつけていました。これは学校教育の成果であると同時に、日本帝国の天皇の赤子(せきし)としての自覚を高めるための軍隊教育の成果でもあった。
 家族への情愛にあふれた手紙を書く一方で、日本軍兵はいったん中国に向かうと残酷な行為を平気で行った。中国の部落に宿営するたびに食料を徴発した。徴発とは泥棒することである。
 日本軍は、兵站基地を十分に計画して設置せず、戦争に直接関係のない民衆から野蛮な略奪によって膨大な軍隊を養おうとした。日本軍は村落を直過するたびに、穀物や家畜を奪い、家屋に容赦なく火を放った。
 無錫に侵攻した第16師団寺兵第33連隊は許巷の村民223人を村の広場に集めて機関銃で撃ち殺し、まだ死に切れない人をふくめて死体を焼いた。1937年11月24日のことである。 日本軍の兵士たちは、中国人を殺すことに後ろめたさはなく、「考えている間もなく、とにかく殺した」と述懐する。
 第16師団の中島今朝吾師団長は、「捕虜はとらぬ方針」なので、部隊の兵士たちは片っ端から元兵士や中国人を殺していった。 7、8百という数の捕虜を「処分」するのには相当に大きな壕が必要で、そんなものはなかなか見つからない。そこで、百、二百に分割して搬送し、適当な場所に連れて行って処分することにした。
「一日に第一分隊で殺した数55名。小隊で250名」
 このように書かれた元兵士の日記があり、書いた本人がそれを見ながら捕虜250人は機関銃で殺したんやろうなと語っています。
さらに日本軍は、南京に残った中国人の女性に対する性暴力を働いています。その被害にあった人は7万人とみられているのです。日本軍は国際安全区のエリアにまで乱入しました。
 日本軍の将接や軍幹部は下級兵士の性暴力を容認したばかりか、自らも性暴力に積極的に加担した。
「南京に入る前から、南京に入ったら女はやりたい放題、ものは取り放題じゃ、といわれておった」と元兵士は語る。
 強姦、強殺が多発した原因は、決して軍紀の弛緩というものではなく、不作為の作為ともいえる日本軍全体の暗黙の容認があったということ。
 このような掘り起こし作業も元兵士の高齢化によって次第に困難になっています。その意味からも貴重な本です。そのころ生きていなかったから関係ないということは許されないと思います。だって、祖父や父たちのしたことなんですから・・・。
(2009年8月刊。2200円+税)

 先日開かれた法曹協議会で、刑務所内でも収容者の高齢化がすすんでいること、不況を反映して窃盗や詐欺などの財産犯が増えていることが報告されました。60歳以上の収容者の比率は平成13年に8.2%だったのが平成21年には14.3%となった。また、万引や無銭飲食などの財産犯が36%から40.5%に増えた。覚せい剤の33.6%とあわせて4分の3を財産犯と薬物犯とで占めている。
 全国の刑務所の収容者は平成18年に3万3千人でピークとなって、その後は減少している。平成21年は2万8千人となり過剰収容の問題はなくなった。
 私は、いまもホームレスの若者の自転車盗の担当しています。3日も食べていなかったので、自ら110番して捕まえてもらったというのです。

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2011年2月 8日

江の生涯

日本史(江戸)

著者  福田 千鶴 、 出版 中公新書
NHKの大河ドラマが始まり、今もっとも注目されている女性です。
戦国時代に生まれた女性のなかで、もっともしたたかな生涯をまっとうしたなかに浅井江(あさいごう)は間違いなく入る。戦国一の美女と称された小谷(おだに)の方(織田信長の妹である市。おだいち)を母に、浅井三姉妹の末娘として生まれ、三度目の結婚で徳川秀忠の妻となり、三代将軍の家光の母として崇敬され、江戸城の大奥で過ごした。54歳で亡くなり、従一位を贈られ、当時の女性として最高の単誉に浴した。
 浅井三姉妹とは、豊臣秀吉の妻となった長女茶々、高極高次の妻となった次女の初(はつ)、徳川秀忠の妻となった三女江(ごう)のこと。近江の名門浅井長政を父に、天下人織田信長の妹の市(いち)を母にもつ由緒正しき出身の姫君たちである。
 浅井江は、天正・文禄・慶長・元和(げんな)・寛永という時代を生き抜いた。織田信長・豊臣秀吉・徳川家康の時代である。そして後半は、徳川秀忠の正妻、将軍家御台所(みだいどころ)として安定した生活を送り、徳川250年の基盤づくりに貢献した。
戦国時代、日本の武家社会では夫婦別姓を基本としていた。つまり、姓は結婚によって変わらなかった。
 徳川秀忠にとって、江との結婚は形式的には再婚となる。もっとも、初婚の相手の「小姫」は7歳で死亡している。江が秀忠と結婚したのは文禄4年のこと。江は数えの23歳、秀忠は同じく17歳。6つ年上の妻であった。そして、長女千(せん)が生まれたとき、江は25歳、秀忠は19歳。
子に乳母が必要とされたのは、生母だけでは乳が足りないという現実的な理由もあったが、長男の場合はとくに生母が育てると母子の情愛が深くなることを避けていたことも理由の一つである。というのも、情愛が深いと母は子を戦陣に送り出せなくなるし、子も母のことを想って戦陣で死する覚悟が鈍るから、武士の子(男)は、母の情愛を知らずに育てさせるのが基本であった。つまり将来、戦闘集団の長として戦陣に赴かねばならない惣領が、生母に愛されないことをもって自殺を図るようでは、すでに武家の棟梁たる資格を失っている。うむむ、なるほど、さすがは絶えず死に直面していた戦国の世に近接していた時代ならではの考えですね。
 江は家光の生母ではない。だから、家光の正嫡としての立場は揺れ動いていた。しかし、江が家光の誕生日を極秘にしたという強い意向からはたとえ表向きであっても、母として家光を守り、御台所として徳川将軍家を守らねばならないという強い信念が読みとれる。江は家光の表向きの母としての役職を十分に演じていた。
 うひょう、江は家光の生母ではなかったというのですか・・・?そして、実子である忠長は、それを知っていたからこそ、なぜ自分が将軍になれないのか、自暴自棄になっていたというのですね・・・。これって、歴史学者の一致した見解なんでしょうか。
 江と秀忠との間に生まれたのは、干、初の二女と忠長の一男である。うむむ、そうなんですか・・・。
 徳川将軍家の御台所のなかで、唯一人、将軍の生母として崇敬され、死後においても歴代将軍の正室・側室のなかで33回忌が行われたのは江だけであった。しかも、50回忌法会まで営まれているのである。うへーっ、たいしたものですね。
 当主の子を生んだ女性がすべて御部家様(側室)になるわけではなく、侍妾は子を生んでも奥女中(使用人)としての立場は基本的に変わらず、出産後も奥女中の仕事を続ける。
 正室である江が統括する江戸城大奥で侍妾から生まれた娘は、すべて正室所生として扱われ、育てられた。むひょう、なるほどなるほど、大奥のしきたりというのは、そうなっているのですね。とても興味深い本でした。
 
(2010年11月刊。800円+税)

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2011年2月 7日

生物の進化大図鑑

生き物

著者  マイケル・J・ベントン、 河出書房新社  出版 
 
 文字どおりの大図鑑です。地球上に生物が誕生し、恐竜が反映するようになって、隠れすむようにして生息していた哺乳類がやがて大きな顔をしはじめ、人類がアフリカに生まれ全世界へ旅だっていく。その全過程が写真と図版で克明に解説されています。私は正月休みに、じっくり眺めて楽しみました。1万円もする高価な本ですが、正月3日間どこにも出かけませんでしたので、それを思えば安いものです。
 アメリカの恐竜発掘現場の写真があります。二人の男性が骨にしがみついて発掘作業中なのですが、人間は足の骨の一本分ほどでしかありません。恐竜の巨大さを如実に示す写真です。
 カンブリア紀には、奇妙奇天烈な生物のオンパレードです。突き出た5つの眼を頭に持ち、口のあたりからにょろっとヘビのようなものが出たオパビニアという生物(節足動物)が海中にいました。失礼ながら、とても笑える姿です。
 ペルム紀には史上最大の大量絶滅があった。火山の噴火による海洋と大気の有毒化の結果、海洋種の95%、陸生種の70%が死滅した。ええっ、これって恐竜絶滅のことかしらんと思ったところ、まだ恐竜が本格的に出現する前のことでした。
 ペルム紀前期にいたディメトロドンは、恐竜そのものではないようですが、背中に大型の帆を持ったワニのような形をしています。赤く塗られていますので、いかにも恐ろしげです。この赤い色には根拠があるのでしょうか。化石に色素は残らないように思いますが・・・・。
 恐竜が出現したのは、三畳紀後期の2億3000万年前のこと。ペルム紀末の有毒な大気が平常に戻って生態系が安定化するなかで、恐竜のような大型のグループがあらわれてきた。
 今ではよく知られているように、とりは恐竜の一部の末裔です。でも、可愛い鳥を見ていて、あれが巨大恐竜の仲間だとは、ちょっと想像できませんよね。
カバに似たディキノドン類であるプラケリアは2000キログラムもありました。なんと2トンです。
 それに対して哺乳類の生まれはじめは、なんと全身9センチ足らずのネズミによく似た動物でした。私たち人間の違い祖先がネズミだったなんて・・・・。ちなみに私はネズミ年の生まれです。それで、いつもチョロチョロ動いていると、小さいころから言われ続けてきました。
 ジュラ紀はまさしく恐竜の世紀です。アロサウルスは身長にして1メートル、体重1800キログラム、恐ろしい捕食動物でした。こんなのに追いかけられたら、それだけで命が縮まりそうです。
始祖鳥はジュラ紀後期。体長30センチ。翼の風切羽なども化石に跡が残っている。
 グラキオサウルスは、高さ23メートル。その重さの大部分は、巨大前肢で支えられていた。アフリカ・タンザニアで発見されたケントロサウルスは、剣竜類にふさわしく、背中に光ったとげを9本も持っていた。
 白亜紀は恐竜の進化の頂点だった。そして、恐竜は絶滅した。6500万年前、大きな小惑星がメキシコのユカタン半島を直撃した。この衝撃が津波や酸性雨のような環境の混乱の連鎖反応を呼びおこして、恐竜の終わりを推進した。
 大小さまざまの恐竜の化石が写真で紹介され、また恐竜の雄姿の想像図があり、ここらの頁を眺めているだけでも楽しく時間を過ごせます。映画『ジュラシックパーク』を思い出します。でも、その隣で一緒になんか生活したくありませんよね。
 頭にコブがあるので有名なパキケファロサウルスは、このコブを利用して、オス同士が戦ったのだと思っていましたが、この本によると、その首はケンカを支えるだけの強さはないので、それはありあないことだとされています。
そして、人類の起源です。アフリカが人類発祥の地であることは定説です。そこから、ヨーロッパにも、アジアにも放散していったというわけです。しかも不思議なことに、ネアンデルタール人も、クロマニョン人も、同じようにアフリカ起源だというのです。ネアンデルタール人がクロマニョン人に進化していったわけではないというのが、なんだか不思議でなりません。
 あなたもぜひ一度この大図鑑を手にとって眺めてみて下さい。この世は面白い生物にみちていたのです。いえ、過去形ではなく、現在進行形です。

(2010年10月刊。9500円+税)

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2011年2月 6日

政治とカネ

社会

著者   海部 俊樹、   新潮新書 出版 
 
 日本の政治がいかにカネまみれであるか、この本を読むと、その一端が首相にもなった当事者自身が吐露していて、嫌になってしまいます。
 表向きはキレイゴトを言っていても、裏ではお金にモノを言わせて何事も進んでいたのが自民党の政治でした。そして、今、それを批判して誕生したはずの民主党の政治が、まったく同じ道を歩んでいます。その典型例が、月に1億円を自由気ままに使って、その使途をまったく明らかにしなくていい内閣官房機密費です。民主党はその廃止が公約だったと思うのですが、政権をとった今は月1億円をこれまでと同じように使って、その使途を公表しようとはしません。自民党政権とまるで同じです。そして、マスコミは、そのおこぼれにあずかっているからなのでしょうね。深く追求することもしません。月1億円を内閣官房長官の主宰で自由に使ってよくて、その使途も明らかにする必要がないというシステムは、どう考えても民主主義に反すると思います。
首相にもなった村山富市について、著者は許し難い人物だと厳しく批判しています。
 村山富市は長いあいだ社会党の国対委員長をつとめていたが、約束は破る、八百長はする、本会議はめちゃくちゃにするといった許し難い人物であった。
そして、小沢一郎も厳しく批判します。物事がまとまりかけると、自分の存在価値が低くなるから、つぶす。つぶすためには、横車でもなんでもゴリゴリ押して、荒れるなら荒れるでよろしい。小沢一郎はそれを繰り返した。何かがちょっと育ってくるとゴツン、すこし芽が出はじめるとゴツンと叩いてしまう性癖がある。だから、「壊し屋」という異名がついた。
 小沢一郎が幹事長で、著者が党首という新進党をつくったが、このとき、小沢一郎と腹の底から信頼しあう関係を築こうとは思わなかった。小沢一郎の問答無用なやり方、会議に出ない、密室政治、人を呼び出す傲慢さ、反対派への報復人事など・・・・。小沢一郎ほど、側近の出入りが激しい政治家はいない、小沢一郎は、誰にとっても心の通い道をつくれない相手である。
 こんな政党に税金で助成金をだすなんて間違いだと思います。企業献金も禁止して、個人献金のみにすべきです。民主党政権は、この点でも公約違反です。
 政党助成金の主要なつかい道は選挙公報です。大手PR会社である電通やら博報堂が私たちの税金でキレイゴトのPR作戦をして国民を欺いているようなものです。郵政改革を最大の焦点とした小泉選挙の負の遺産に今、私たちは苦しめられているように思うのです・・・・。
それにしても、著者の近影は痛々しさを感じました。政治家というのは、心労がひどい職業なんですね。まともな人にはとてもできない職業です。だから差別発言を繰り返す石原慎太郎がのさばる世界なんでしょうね。残念です。

(2010年12月刊。680円+税)

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2011年2月 5日

伝える力

社会

池上彰 PHPビジネス新書 2007年 840円


かつてNHKの記者や子供ニュースのキャスターを務め、現在はフリーのジャーナリストとして活躍する著者の2007年のエッセイ集。著者の近年の池上ブームといえるほどの大活躍により、改めて本書も脚光を浴び、ベストセラーランキングの上位に名を連ねている。


試しにいくつか目次を拾ってみる。
・深く理解していないと、わかりやすく説明できない
・まずは「自分が知らないことを知る」
・「よい聞き手」となるために
・「型を崩す」のは型があってこそ
・悪口は面と向かって言えるレベルで
・優れた文章を書き写す
・寝かせてから見直す
・アウトプットするには、インプットが必要
・思い立ったらすぐメモ


このように難しいことは何も書かれていない。ただただ人と人との関わり方を易しく易しく書き綴っている。これが「伝える力」の源泉なのだなあと感じる。


振り返って私も平素より「伝える」ことを生業とし、そのことに力を注いでいるつもりであるが、伝える内容の難しさを競うことに自ら陶酔しているところがあるな、とふと気付く。平易であることが大切であることを再認識させてくれる。


また本を読むのに時間がかかる私でさえ、この本を2時間で一気に読み通せた。このような一気に読み通させる迫力も、「伝える力」の本質に一面なのであろうな、と思った。


伝えること、それはその語義からも明らかなように、人が人に云うことである。伝える力を磨くことは、自分を磨くことであり、相手を尊重することであり、伝え、伝えられることの力は、そのような両者の健全で融和な関係の中で生み出されるものであるのであろうな、と考えた。

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労働の人間化とディーセント・ワーク

司法

著者  牛久保  秀樹、    かもがわ出版 
 
 ディーセント・ワークという言葉は耳新しく、まだ聞き慣れません。ディーセント・ワークについて、この本では、人間らしい労働と訳すことを提案しています。ディーセントというのは、こざっぱりとしたという感じの言葉です。
 著者は日本の労働事件をたくさんあつかうなかでILO(国際労働機関)の果たしている大きな役割に注目し、ジュネーブの本部へ何度も足を運んだのでした。九州大学の吾郷真一教授はILOで働いたこともある人物で、そのすすめもあったということです。実は、著者も吾郷教授も、そして私もみんな大学の同級生なのです。そして、著者は1968年に始まる東大闘争で活躍したヒーローです。私などは、いつも著者のアジ演説を聞いて、すごいなすごいなと励まされていた一兵卒でした。
 吾郷教授は、日本の弁護士は、もっと国際法を勉強しないとだめだと叱っているということです。そうなんでしょうね。でも、語学力のなさからつい国際法を敬遠してしまうのです。
 天下の野村證券が社員の女性差別をして裁判になったとき、日本での裁判と同じく影響力を持ったのがスウェーデンにあるGESという投資適格情報提供会社であった。この会社は、裁判所で判決が出て、ILOから是正勧告が出ているのに野村證券はそれを守っていない。そんな会社は投資不適格であるというレポートを全世界に公表した。つまり、国際基準を守らない企業は投資先としても不適格だとしたのである。
 なーるほど、ですね。日本では天下の野村證券であっても、国際的には違法なことを平気でやり通す横暴な企業の一つに過ぎないと判定したわけです。痛快ですね。
著者は日本における労働の意義がおとしこめられていることを鋭く告発しています。この社会の未来を担う若者たちにこそ労働が魅力あるものに、人生をかけるためにふさわしいものとならなければならないと力説しています。まったく同感です。
 私の事務所で働いている30代の女性が、こんどの一斉地方選挙に立候補することになりました。彼女は法律事務所で働きながら、弱い人たちの支えになればと思って一生懸命にがんばってきたが、さらに飛躍してがんばりたいという決意を語ってくれました。私も精一杯に応援するつもりです。若者が働くことに意義を感じることの出来ない社会では、日本に未来はありません。私の好きな言葉は、未来は青年のものというものです。久しぶりに20代の熱き血潮をも思い出させてくれる本でした。
 この本には、このほかフランスやスイスなど、ILO訪問のあいまに訪問した観光地の紹介も載っていて、楽しく読みました。幸い私の行ったところも多く、アヌシーなど再訪したいと思うところもたくさん登場しています。
(2007年3月刊。1800円+税)

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2011年2月 4日

日露戦争の真実

日本史(明治)

著者   山田 朗、   高文研 出版 
 
 「坂の上の雲」で日露戦争が注目されている今、ぜひとも多くの日本人に読んでもらいたい本です。わずか180頁ほどの本ですが、内容は大変充実していて、私の赤エンピツが次々に出動し、ポケットにしまう間も惜しくなって、ずっと右手に握りしめながら熟読していきました。
 明治は成功、昭和は失敗という司馬流の二分法は間違いである。近代日本の失敗の典型であるアジア太平洋戦争の種は、すべて日露戦争においてまかれている。日露戦争に勝利することによって、日本陸海軍が政治勢力の軍部として政治の舞台に登場した。軍の立場は、日露戦争を経ることで強められ、かつ一つの強固な官僚組織として確立した。
近代日本の大きな失敗の種のもう一つは、日露戦争後、日本が韓国を併合してしまったことにある。そうなんですよね。植民地支配は日本の失敗の源泉です。
 日露戦争によって、アジアの人々を勇気づけたのは事実としても、それは当時の日本が意図したことではない。むしろ日本は、欧米列強の植民地支配を全面的に容認する代償として、列強に韓国支配を容認してもらった。
 日本は、幕末、明治維新のころから、イギリスの世界戦略に巻き込まれ、ロシア脅威論に突き動かされてロシアとの対決路線を強めていった。明治維新以来、日本政府は「お雇い外国人」をたくさん雇ったが、そのなかで一番多かったのはイギリス人だった。だから、基本的にイギリスからの情報で世界を見ていた。イギリスはロシアと世界的に対立していた。このイギリスの反ロシア戦略が、日本の政治家やジャーナリストの意識に影響を与えていった。なーるほど、そうだったのですね。
 日清・日露戦争による軍拡によって国家予算に占める軍事費の割合は27.2%から
39.0%に増えた。軍事の国民総生産に占める割合も平均2.27%から3.93%へと大幅に上昇した。軍事予算が増えると、ろくなことはありません。
日本軍は、土地は占領するがロシア軍の主力に大打撃を与えることができず、ロシア軍は後退しながら増援部隊を得て、どんどん大きくなっていった。これ以上ロシア軍が大きくなると、日本陸軍が全兵力を投入してもまったく太刀打ち出来なくなるというところで、ロシア国内で革命運動が広がり、戦争が継続できなくなったために、戦争がおわった。純粋に軍事的には、極東のロシア軍は日本軍を圧倒できるだけの戦力を蓄積しつつあった。危機一髪のところで、日本軍はロシア軍に「勝っていた」のでしたが、日本国民の多くがそのことを知らされず、気がついていませんでした。だから、「勝った」のに、なぜロシアからもっと戦利品を分捕れないのかという不満が募ったわけです。
 日本は外国からの借金に成功しなかったら、日露戦争はできなかった。お金を貸してくれたのは、イギリスとアメリカ。イギリスは銀行が、アメリカではロスチャイルド系のクーン・レーブ商会というユダヤ金融資本が日本の国債を買ってくれた。このクーン・レーブ商会は満州での鉄道開発に乗り出す意図があった。ところが、日露戦争のあと、日本がロシアと裏で手を結んでアメリカが「満州」に入ってくることをブロックしてしまったから、アメリカは対日感情を悪化させた。ふむふむ、そんな裏の事情があったわけですか・・・・。
 日本軍は、陸軍も海軍も有線電信・有線電話・無線電信による情報伝達網の構築にきわめて熱心で、それによって兵力数の劣勢を補った。野戦における有線電信・電話の使用など、当時のハイテク技術を活用した日本軍の戦いに、イギリス人をはじめとする観戦武官・新聞記者は大いに感心し、注目していた。ところが、この点は秘密にされているうちに、日本軍自身が忘れてしまい、また軽視してしまった。いやはや、秘密主義は自らも滅ぼすというわけです。
 日本軍が旅順攻略を急いだのは、バルチック艦隊がやってきて無傷の旅順艦隊と合流したら、黄海はおろか日本近海の制海権を日本側が確保できなくなって、輸送や補給ができなくなれば、大陸での日本軍の作戦はまったく不可能になってしまう。そこで、バルチック艦隊がやって来る前に、なんとしても旅順を攻略して、旅順艦隊を撃滅しておこうと大本営は考えた。
 バルチック艦隊を日本海軍が撃破したのも、かなり運が良かったともいえるようです。ぜひ、ご一読ください。価値ある本ですよ。
(2010年11月刊。1400円+税)

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2011年2月 3日

帝国の落日(上巻)

ヨーロッパ

著者 ジャン・モリス、  講談社 出版 
 
大英帝国の繁栄から衰退までを描いた帝国史です。
1897年6月、ヴィクトリア女王は即位60周年記念式典を心豊かに祝うことができた。
19世紀末の時点で、英国民は帝国民としてふるまうのが習い性になっていた。世界の4分の1を統治する技量からいっても他国に負けない力を持っていた。
この時期、ヨーロッパ各国の野望が集中したのはアフリカである。そこではアフリカ争奪戦と呼ばれる取りあいと自己弁護の醜い争いが繰り広げられていた。やりたい放題だった。当時のヨーロッパ人にとって、アフリカ先住の黒人は、ほとんど人の数にも入らない存在で、アフリカの土地をヨーロッパ人が占領し、思うままに支配し、改善し、搾取するのは当然とみなされていた。
南アフリカにおいて、英国人とボーア人は長年の仇敵同士だった。ボーア人は容易に融和しなかった。ボーア人は生まれながらの非正規兵で、世界でもっとも優れたゲリラ兵といってもよかった。武器はヨーロッパの国々から入手した最新のものであり、生まれ育った土地を知り尽くしていた。
1902年5月、ボーア人はついに降伏した。しかし、英国兵の戦死者は2万2,000.その3分の2がコレラと腸チフスの犠牲者だった。ボーア人の死者2万4,000人、そのうち2万人が婦女子だった。すぐに戦闘は終わると思ってイギリスと出た派遣軍は8万5,000人。しかし、戦争終結時には、45万人となっていた。英国の首相は、戦費がかさみすぎて英国は三等国に成り下がったと公言した。
ヴィクトリア女王が亡くなり、あとを継いだエドワード7世は大英帝国にあまり関心がなかった。第一次大戦が始まった。
英国にとって、トルコ軍とのガリポリの戦いは、アメリカ独立戦争以来、最大の敗北となった。帝国特有の虚勢が再燃するなかで作戦が開始され、最終的には帝国の伝統に押しつぶされるようにして敗北した。英国軍の将軍たちは、兵と距離を置くことが多すぎた。
英国は大戦によって決定的に変化した。70万人もの若者が死んだのだから、当然といえば当然だった。
英国は第一次大戦への参戦諸国のなかで、もっとも強大なまま終戦を迎えたように見えた。工業はまったく被害を受けず、財政も大打撃を受けたというのにはほど遠かった。軍事力も、世界最強の空軍、最強の海軍と、世界有数の強力な陸軍を有していた。しかし、多くの悲哀を経験するなかで、成功に伴うはずの生気を失って、革命に揺れるロシアが発する共産主義の狼煙(のろし)や米国が提案するウィルソン流のリベラリズムに対抗する壮大な理念も、希望や変化を思わせるメッセージも提示することはできなかった。ドイツとの講和条約が調印され、戦後世界の運命が決定されるヴェルサイユ会議にあって、英国は決定的役割が果たせなかった。
英国にとって、アジアやアフリカでも悩みは尽きなかったが、何にも増して悩ませたのは、帝国領土のなかで、もっとも地理的に近く、もっとも古く、もっとも不満の大きい場所、アイルランドだった。たしかに、アイルランド紛争はごく最近まで続いていましたね。このあと、インドの独立に至るガンジーの活躍が記述されています。パックス・ブリタニカの実情を知ることのできる本格的な歴史概説書です。
                   (2010年9月刊。2400円+税)

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2011年2月 2日

特務機関長・許斐氏利

日本史

著者   牧 久、  ウェッジ 出版 
 
 軍隊・日本軍を美化する風潮も根強いものがありますが、その実体を知れば知るほど、こんなひどい利権集団に国の運命をまかせるわけにはいかないものだと痛感します。国を守るなんて言いながら、その内実は利己主義者の集団だったのではないでしょうか。そんな軍の手先の一つが特務機関でした。中国大陸で金にあかせて暗躍し、暴虐の限りを尽くしたのです。そして、戦後の日本に私物化した大金をひそかに持ち帰って、またもや日本で贅沢三昧しました。
許斐は、このみと読みます。宗像(むなかた)大社を護る許斐城の城主だったということです。私の中学校の同級生にも、この許斐姓がいましたので、私は、抵抗感なく、このみと読めるのです。
 許斐氏利は、沖縄で牛島中将とともに自決した長勇参謀長のナンバー2だった。長勇参謀長を英傑と評価する人も少なくないようですが、私には、無責任な帝国軍人の典型としか思えません。
 日本軍は中国にいくつかの特務機関を設置した。その活動資金は軍の機密費から出ていた。日本軍による南京大虐殺にも、この許斐氏利は、長勇とともに関与しているようです。中国が30万人もの大虐殺があったと主張している大変な事件です。正確な人数はともかくとして、日本軍が大虐殺を敢行したこと自体は間違いないのです。ところが、人数の大小を問題にして、その責任を素直に認めようとしない議論をする日本人がいるのが私には不思議でなりません。
 許斐氏利は27歳のとき、中国人の配下70人をふくめて100人もの人数を擁する特務機関長として暗躍した。そして、軍の機密費は禁制品の阿片取引から出ていた。満州国政府は、阿片を専売制にして、その収入は国家予算の6分の1を占めていた。日本政府も、中国における占拠地の運営の正規予算のなかに阿片による収入計画を組み込み、実行していた。日本は、阿片を計画的に入手し、それを自治政府に分配していた。阿片による収入がなければ、日本は、これだけ大規模な戦争を遂行することは出来なかった。そして、この阿片取引には、日本政府の下で、三井物産も三菱商事もかかわっていた。   
三井と三菱が中国大陸における阿片の売買でもうけていたこと、そして、戦後の中国に対して謝罪もしていないことを知りました。阿片をすすめて多くの人間を廃人にしながら、自分だけは涼しい顔をして「文化的」な生活をするなんて、許せませんよね。
(2010年10月刊。1800円+税)

 先日、あるパーティーの席で福岡の岩本洋一弁護士から、この本は読んだかと尋ねられました。もちろん、こうやって読んでいたわけです。ときどき面白い本を薦めらます。これからも、どうぞご紹介下さい。
 ところで、日曜日と月曜日はすごい雪が降りましたね。高速道路も一時ストップしていたようです。そんな寒さで、いつもなら咲いている水仙の花が今年は開花が遅いそうです。でも、チューリップの芽が地上から、あちこちで顔を出しています。2月は逃げるそうです。もうすぐ春が来るのですよね。

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2011年2月 1日

戦死とアメリカ

アメリカ

著者 ドルー・ギルピン・ファウスト、 彩流社   出版 
 
アメリカにとって南北戦争の重大さを改めて認識させられた本です。南北戦争の続いた1861年から65年までの戦死者は62万人。これは、アメリカ独戦争、1812年戦争、メキシコ戦争、半西戦争、第一次世界大戦そして第二次世界大戦、朝鮮戦争の戦死者数の合計に匹敵する。
 現在のアメリカの人口にあてはめると、全人口の2%、600万人が戦死したに等しい。南軍の戦死者は北軍の3倍。戦える年齢に達した南部白人男性の5人に1人が戦死した。そして、市民も5万人が犠牲になった。南北両陣営とも、この戦争が数年に及び、これほどの規模と犠牲者をだすとは想像もしていなかった。どちらも長く続くものではないと考えていた。北部人210万人と88万人の南部人が武器をもって戦った。
細菌や抗生物質はまだ知られておらず、伝染病や赤痢などが両陣営を襲った。連邦軍兵士の4分の3が深刻な腸障害にかかった。
 南軍の従軍牧師は兵士を前にして「兵隊である皆さんの務めは死ぬことなのです」と説教した。うむむ、なんという説教でしょうか・・・・。
ほとんどの兵士にとって、人を殺すことは克服すべき課題だった。仲間が殺される場面を目撃した兵士は、復讐心に燃えて理性を捨て、恐怖も道徳心もなくした。
 北軍、南軍にかかわらず、兵士たちはすくなくとも初めのうち殺すことに葛藤があった。しかし、やがて男たちは殺すことを楽しむようにさえなっていった。
 射撃能力と射程距離が高度に進化する一方、ほとんど訓練を受けていない志願兵と大規模な軍隊構成が戦闘をますます無秩序化し、士官が部隊を直接コントロールするのを難しくした。
ゲティスバーグの戦場で、弾が込められたまま放置された2万4戦丁の銃が発見された。これは兵士たちが撃てなかったかが、ためらったがために敵に撃たれて死亡し、負傷し、あるいは敗走したことを物語っている。
ほとんどの戦いは91メートル圏内で、お互いの顔が見える範囲で対峙したものだった。黒人の戦死者数はとび抜けて多かった。戦争に行った18万の黒人のうち5分の1は生きて戻れなかった。といっても戦闘そのものより、病気で死んだ数のほうがずっと多かった。
殺すことは戦争の本質である。しかし、それは人間のもっとも根源的な前提、自分自身と他の人間の命の神聖さに挑戦するものであった。殺すことは変化を生み出し、それは容易に元に戻ることはなかった。自分たちと同じ人間が殺され、死体となった。戦場を見てしまったら、かつての自分にはどうしても戻れなかった。
これを読んで、私は、すでに亡くなられましたが元アメリカ海兵隊員だったネルソンさんの話を思い出してしましました。べトナムで人を殺したことのある彼は、そのことがずっと悪夢のようにつきまとっていると語っていました。
南北戦争の舞台となったところは、葬儀屋にとっておおきなビジネスチャンスになった事実も紹介されています。高額のエンバーミングが流行したのです。
南北戦争によって、20万人ちかい北軍兵が、そして21万人をこえる南軍兵が捕虜になった。3万人の北軍兵、2万6千人の南軍兵が捕虜収容所で死亡した。捕虜生活は、「地上でもっとも地獄に近い状態」だった。病院は危険な場所だった。飲料水は汚染され、伝染病が広がった。
著者はハーバード大学の現学長です。アメリカでベストセラーになったそうですが、それだけ南北戦争は現代アメリカ人にとって依然として大いなる関心の対象なのですね。今でもアメリカの各地で、大勢が参加して当時の服装のまま再現した模擬戦を演じているというのにも驚かされます。それにしても62万人という大量の戦死者を出した戦争について、博愛を旨とするはずのキリスト教が無力だった事実は残念としか言いようがありません。アメリカは本当に宗教の国なのでしょうか・・・・。

(2011年2月刊。1600円+税)

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