弁護士会の読書

※本欄の記述はあくまで会員の個人的意見です。

2011年2月 8日

江の生涯

日本史(江戸)

著者  福田 千鶴 、 出版 中公新書
NHKの大河ドラマが始まり、今もっとも注目されている女性です。
戦国時代に生まれた女性のなかで、もっともしたたかな生涯をまっとうしたなかに浅井江(あさいごう)は間違いなく入る。戦国一の美女と称された小谷(おだに)の方(織田信長の妹である市。おだいち)を母に、浅井三姉妹の末娘として生まれ、三度目の結婚で徳川秀忠の妻となり、三代将軍の家光の母として崇敬され、江戸城の大奥で過ごした。54歳で亡くなり、従一位を贈られ、当時の女性として最高の単誉に浴した。
 浅井三姉妹とは、豊臣秀吉の妻となった長女茶々、高極高次の妻となった次女の初(はつ)、徳川秀忠の妻となった三女江(ごう)のこと。近江の名門浅井長政を父に、天下人織田信長の妹の市(いち)を母にもつ由緒正しき出身の姫君たちである。
 浅井江は、天正・文禄・慶長・元和(げんな)・寛永という時代を生き抜いた。織田信長・豊臣秀吉・徳川家康の時代である。そして後半は、徳川秀忠の正妻、将軍家御台所(みだいどころ)として安定した生活を送り、徳川250年の基盤づくりに貢献した。
戦国時代、日本の武家社会では夫婦別姓を基本としていた。つまり、姓は結婚によって変わらなかった。
 徳川秀忠にとって、江との結婚は形式的には再婚となる。もっとも、初婚の相手の「小姫」は7歳で死亡している。江が秀忠と結婚したのは文禄4年のこと。江は数えの23歳、秀忠は同じく17歳。6つ年上の妻であった。そして、長女千(せん)が生まれたとき、江は25歳、秀忠は19歳。
子に乳母が必要とされたのは、生母だけでは乳が足りないという現実的な理由もあったが、長男の場合はとくに生母が育てると母子の情愛が深くなることを避けていたことも理由の一つである。というのも、情愛が深いと母は子を戦陣に送り出せなくなるし、子も母のことを想って戦陣で死する覚悟が鈍るから、武士の子(男)は、母の情愛を知らずに育てさせるのが基本であった。つまり将来、戦闘集団の長として戦陣に赴かねばならない惣領が、生母に愛されないことをもって自殺を図るようでは、すでに武家の棟梁たる資格を失っている。うむむ、なるほど、さすがは絶えず死に直面していた戦国の世に近接していた時代ならではの考えですね。
 江は家光の生母ではない。だから、家光の正嫡としての立場は揺れ動いていた。しかし、江が家光の誕生日を極秘にしたという強い意向からはたとえ表向きであっても、母として家光を守り、御台所として徳川将軍家を守らねばならないという強い信念が読みとれる。江は家光の表向きの母としての役職を十分に演じていた。
 うひょう、江は家光の生母ではなかったというのですか・・・?そして、実子である忠長は、それを知っていたからこそ、なぜ自分が将軍になれないのか、自暴自棄になっていたというのですね・・・。これって、歴史学者の一致した見解なんでしょうか。
 江と秀忠との間に生まれたのは、干、初の二女と忠長の一男である。うむむ、そうなんですか・・・。
 徳川将軍家の御台所のなかで、唯一人、将軍の生母として崇敬され、死後においても歴代将軍の正室・側室のなかで33回忌が行われたのは江だけであった。しかも、50回忌法会まで営まれているのである。うへーっ、たいしたものですね。
 当主の子を生んだ女性がすべて御部家様(側室)になるわけではなく、侍妾は子を生んでも奥女中(使用人)としての立場は基本的に変わらず、出産後も奥女中の仕事を続ける。
 正室である江が統括する江戸城大奥で侍妾から生まれた娘は、すべて正室所生として扱われ、育てられた。むひょう、なるほどなるほど、大奥のしきたりというのは、そうなっているのですね。とても興味深い本でした。
 
(2010年11月刊。800円+税)

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