弁護士会の読書

※本欄の記述はあくまで会員の個人的意見です。

2008年9月 5日

日無坂

江戸時代

著者:安住洋子、出版社:新潮社
 いやあ、うまいですね。すごいですよ。ただただ感心しながら電車のなかで夢中になって読みふけりました。いつのまに終着駅に着いたのかと思うほど、あっという間でした。
 父と息子がお互いに理解するのはとても難しいことだというのが、この小説の大きなテーマです。それを女性作家が見事に描き出しています。
 父のようになりたくはなかった。いや、なれなかった。薬種問屋の主人におさまった父と、浅草寺裏の賭場を仕切る息子。
 親と子の、すれ違い。謎解きが感涙に変わる江戸市井小説の名品。親と子のわがかまりと情を描き尽くす市井小説の名品。
 あの日の父の背中が目に焼きついて離れなかった。
 跡継ぎになることを期待されながら父利兵衛に近づけず、反発し、離れていった。あの日から10年、長男の伊佐次は、すっかり変わり果てた父とすれ違う。父は万能薬という触れ込みの妙薬をめぐって、大店の暖簾を守ろうとしていたのか、それとも・・・。
 以上はオビにある、うたい文句です。この本の内容を的確に簡潔にまとめています。山本一力の江戸世話物の世界とは一味違います。時代小説界の次代を担う新鋭の傑作長編というキャッチフレーズに異論はありません。次作が楽しみです。タイトルは、ひなしざか、と読みます。
(2008年6月刊。1400円+税)

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2008年9月 4日

ヤクザマネー

社会

著者:NHK取材班、出版社:講談社
 読むうちに気が滅入ってくる本です。いやあ、今の日本って、こんなにもヤクザの支配する国だったのか、知らぬが仏とは言いながら、驚くべきヤクザ王国・日本の実情の一端が暴かれています。目をそむけるわけにはいかない現実です。
 私の身近なところでもヤクザの抗争で死者が何人も出ていながら、1年以上たってもまだ終息の見通しが立っていません。その本質は公共事業の利権をどちらが支配するかにあると私は見ています。大型公共工事は、その総工事費の3%を暴力団と政治家が分けあうというのが定説です。そのぶんどり合戦で死者が出るまでの抗争になっているのではないか、ということです。
 暴力団がディーリングルームをもち、デイトレードで1日3億円を運用している部屋にNHKのカメラが入ったのです。その顛末が本になっています。
 暴力団は、その資金源を大きく変化させている。今や、証券市場やITベンチャー企業への投資や融資などを新たな資金源とし、いわば合法的な手段によって、闇の資金を膨張させている。同時に、犯罪とは関係のない資金に見せかけるマネーロンダリングも行っている。証券市場に進出しているのは、一部の資金力ある暴力団だけではない。殺人罪で服役したことのあるヤクザや、繁華街の「みかじめ料」で食いつないできた組員まで株取引に手を出している。
 そして、暴力団の資金獲得に手を貸す新たな集団が存在する。共生者という。その正体は、元証券マン、元銀行員そして公認会計士、金融ブローカーなどだ。共生者は、暴力団とは関係ない、シロがグレーになって活動する。この共生者の暗躍によって、暴力団の資金がますます不透明化している。
 暴力団が資金を出し、運用はプロのトレーダーにまかせる、というものです。証券市場は、国が用意した賭博場だ。暴力団はインサイダー情報をもってそこに入っていく。まさにイカサマ賭博だ。しかし、それが堂々と通用している・・・。
 ヤクザマネー膨張の背景にあるのは、新興市場を推進した、国の規制緩和政策である。上場基準が大幅に緩和されたことによって、新しくベンチャーの上場企業が次々に誕生し、それらの値動きの激しい株を狙って、ヤクザマネーが市場に流入した。
 新興市場で上場したものの、資金が枯渇したベンチャー企業が頼ったのも、やはりヤクザマネーだった。市場原理を最優先する国の規制緩和政策が闇の資金の膨張を許している。
 日本社会に蔓延している「欲」にまみれた拝金主義が暴力団の存在を許している。
 いやあ、そう言われると、なんとも言えませんよね。政府・自民党の規制緩和が暴力団を肥え太らせているわけですが、それを野放しにしてもいいという拝金主義のはびこりが基盤となっているというのです。
 暴力団の金貸しは、スピードがある。遅くとも3日以内。常時、億単位の現金が事務所の金庫に用意されている。5億円なら、一晩で用意できる。月30%という暴利。そのうえ、感謝の気持ちとして何%かの上乗せも要求される。
 暴力団、芸能人、そして政治家。日本のアンダーグランドの世界にうごめいている。
 警察は山口組を壊滅させようとした。しかし、それから40年たって、山口組は滅びたどころか、年々、拡大の一途をたどり、今や8万人をこえる暴力団総数の半分を占めている。45都道府県に及び、ほぼ全国制覇した。
 今、日本の暴力団はマフィア化している。昔は、オレはヤクザだと公言していたが、今は表だっては派手に動かない。警察も手がかりがつかめなくなっている。
 いやあ、ホントに嫌ですよね。暴力団がはびこる世の中って。今の企業のなかでは、銀行とゼネコンが一番ヤクザマネーと密接だと思ってきましたが、証券会社とベンチャー企業は、その上を行くようですね。
 警察はもう一度、暴力団壊滅作戦に本格的に取り組んでほしいと思います。
(2008年6月刊。1500円+税)

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2008年9月 3日

超巨大旅客機エアバス380

社会

著者:杉浦一機、出版社:平凡社新書
 空港に行くたびに自分の乗る飛行機に乗りこもうとする乗客の多さに驚きます。こんなにたくさんの乗客を乗せて、こんなに大きい飛行機がよくも空を飛べるものだと呆れてしまうほどです。
 そんな不信から、私のよく知る弁護士に飛行機に乗らない主義を貫徹している人がいます。でも、そうは言っても、東京に行くのに新幹線とか夜行寝台列車というわけにはいきません。坂本九ちゃんが乗っていた日航ジャンボ機の墜落事故の原因は真相が解明されたとは今も私は信じていませんが、とりあえずJALやANAを信頼して乗っています。でも、格安飛行機にだけは絶対に乗りたくありません。整備を本当に手抜きしていないのか不安でならないからです。
 昨今はエコノミークラスの運賃は安売りが激しく、利益幅が薄い。エコノミー客15〜16人を運んで、ようやくビジネス客1人の利益に相当する。そのため、国際線の標準的な収益構造は、エコノミー客で採算をとり、上位クラス客で利益を出す形になっている。したがって、ファーストやビジネスクラス客の集客に懸命になっている。
 JALもANAも、収容人数は多いものの燃料消費も多いジャンボ機(3クラス標準で416席)を長距離線からはずし、経済性のよい双発機のB777(3クラス標準で365席)に切り替えている。その結果、定員は1便あたり50人前後も減るが、燃料消費が少なく効率が良いため、利益は2倍にもなる。もちろん、減らされるのはエコノミー席で、利益重視からエコノミー客が切り捨てられつつある。
 ビジネスクラスに若い日本人女性が乗っているのをよく見かけます。よほど裕福な家庭なんでしょうね。若いうちはエコノミー席で苦労した方がいいと思うんですが・・・。
 地上では通常の機体も高空では膨張し、膨張と就職を繰り返すことによって金属は早く疲労し、クラック(亀裂)の原因となる。
 複合材が重量の3割に使用されているエアバス380は、最大旅客数853人で自重は274トン。収容客数は5.92倍に増加しているのに、自重は4.57倍にとどまっている。
 チタンは、重さがアルミの1.76倍、鉄の6割ながら、強度はアルミの6倍、鉄の2倍ある。毎年、世界で生産されるチタン9万トンの3分の2は航空機産業で消費される。ジャンボ機のエンジンには、4基合計で4.5トンものチタン(合金をふくむ)が使われている。ちなみに、日本は世界のチタンの3分の1を生産している。
 800人以上もの乗客と大量の貨物を載せ、560トンもの重量で離陸する巨大な機体を、わずか2人のパイロットで操縦するのは驚きだ。これには操縦装置の自動化、電子化技術が大いに貢献している。
 1927年のリンドバーグの初の大西洋横断飛行のときには、33時間29分のあいだ片時も操縦桿から手を離せなかった。いやあ、まさに超人的なことですよね。
 人間が生活するのに快適な湿度は40〜50%だが、現在の機内はなるべく乾燥させている。湿気によって配管に結露したり、機体や部品が錆びることを防ぐためだ。そのため、現在の機内はサハラ砂漠よりも乾燥した6〜8%の湿度になっている。乗客の身体からは、1時間に80cc(11.5時間で1リットル)もの水分が奪われる。
 A380では、湿度を12〜15%に高めることになっている。水分不足がもたらすエコノミー症候群の予防には効果がありそうだ。
 ちなみに、現行の機種でも、3〜4分ごとに新鮮な空気に入れ替わっている。
 A380をJALが採用する目はなく、可能性があるのはANAのみ。JALはボーイングから逃れられないようです。
 飛行機によく乗る私からすれば、いろんなサービスがありましたが、何よりのサービスは絶対安全です。どんなことがあっても落っこちないこと、それだけです。これをくれぐれも飛行機会社にはお願いします。安かろう悪かろう、整備は手抜きというのでは困るのです。その面の規制緩和はぜひやめて下さい。
(2008年3月刊。760円+税)

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2008年9月 2日

あなたも作家になれる

社会

著者:高橋一清、出版社:KKベストセラーズ
 タイトルに強く魅かれて即購入し、いの一番で最優先課題図書として、2回の昼食時に読みふけりました。だって、つい身近な先輩弁護士から、「あんたは、まったく文才がないねえ」と決めつけられてしまったのですよ。なんと失礼な、今にみていろ、ボクだって・・・。すごく反発したものでした。その怒りをバネに、これからもがんばってせっせと書いていきます。
 著者は長年、芥川賞と直木賞の選考委員会の受賞を知らせる仕事をしていました。正確には、財団法人日本文学振興会の理事・事務局長でした。1996年7月から2001年1月までのことです。
 土日に必死で書く「土日作家」ほど、生活のための正業にはちゃんと向かいあっているものだ。小説創作のために、正業の方は金曜まで何が何でも片付けでおかなければならない。副業で小説を書いているような人こそ、本業もたいへん充実していて、また、小説でも成功している例も多かった。
 だいたい1週間くらいで区切りをつけて繰り返すのが健康にかなっているようで、それが長続きさせるコツでもあった。
 松本清張は、1日に3時間、絶対に電話にでない時間をつくっていた。その間、読書をしていた。旺盛な執筆をしている作家ほど、読書をしていた。
 小学校・中学校の教師が作家になるのはごく少ない。高校の先生からやっと多くなっていく。「日常の授業でつかっている言葉と小説の言葉にあいだに、あまりにも差があるので、小説を書くのが辛い、難しい」と言う。
 新聞記事のように情感をこめた表現をしない仕事をずっとしていると、自分の情感をさらすような文芸作品には、なかなか入っていきづらくなる。
 小説では、「おおむね天気は良好だった」の「おおむね」を自分なりにどのように描写するのかが勝負となってくる。「おおむね」では非常に通りいっぺんの表現でしかない。
 具体的な言葉のもちあわせは作家の読書量と正比例する。私は、「ひよめき」という言葉を知りませんでした。赤ん坊の頭のてっぺんにある、息を吐き吸いするたびに、ひよひよと柔らかく揺れるあたりを指した言葉だそうです。いやあ、世の中、知らない言葉って、ホント多いんですよね。
 書いてもどうせ分からないから、と読者をなめ、作家まで貧弱になってしまってはいけない。うーん、そうなんですよね。
 もてる男の作品はつまらない。ただそこにいるだけでもてる男に、どうして面白い小説が書けようか。ふむふむ、なるほど、そうだったのか。私の書いたものがつまらないのは、もてる男だからなのか、とつい一人納得したことでした(ハハハ、しゅん)。
 作家にとって、世の中無駄なものは何ひとつない。小説は35歳からの仕事だ。
 エンタテイメント小説は、私の知らないことが書いてあると読者を喜ばせるのが仕事だ。芥川賞や純文学は、今日を生きている者の愛と苦悩を書き、まるで私のことが書いてあるみたいと読者を共感させ喜ばせてほしいジャンルだ。
 小説は感性に訴えて、読者を喜ばせ泣かせるものだ。
 多くの作家がペンネームを用いているのは、親がつけた名前とは違う名前を名乗ることによって、自分ではない何ものかになり、存分に筆をふるうためなのだ。いやあ、これは本当にそうなんです。私もこのブログをペンネームで書いていますが、実名では書きにくいことも気軽に書けるからです。また、現実の私を知る人でも、一瞬、抵抗なく読めるだろうという気配りでもあります。
 いろんな賞を選考する側の内情が紹介されています。たくさんの原稿をひたすら読み続けるのも大変だろうなと、つい同情してしまいました。どんな本でも出だしが大切だし、決して出し惜しみしてはいけないというのも肝に銘じました。
 明日死ぬかもしれないのに、これを書いたら自分は終わりだ。私のすべてだ。書き終わったら死んでもいい。明日がなくてもいい。それくらいの気持ちで取り組んでほしい。そのときに発生したものは、そのときに書いておかないと、次も出てこない。全部つかい切って器がカラになる。すると、また新しいものが器にたまる。そんなものだ。
 いえ、私も実際、いま書いているものについてはそんな思いに何度もかられました。これを書き終わってしまったら、自分はあと何もすることがないんじゃないかなって、・・・。でも、今は、そうは思っていません。書いたものを手直しして、もう一度、書き直し、今度は文庫本として世の中に送り出すことを夢見ています。もう少しストーリーを完全にしたいと思うのです。そんな夢をもっています。
 小説は書きこみ過ぎるより、少ないほうがいい。小説の読者は、想像する喜びを楽しんでいるのだ。
 一生懸命に生きていると、いろいろなことが見えてくる。要は、あなた自身がいかに日々を見つめているかだ。つまり、毎日を一生懸命に生きているかなのだ。
 自分のなかのもう一人の自分に気づいたとき、書ける材料が小説に生まれ変わる。
 もう一人の自分とは、かくありたい、こういう自分であってみたいという、今の自分をどこかで否定するような他者だ。今の自分はいつわりではないか、どこか違っているんじゃないか、そう感じてしまうところがあるのが作家だろう。
 できれば見ないほうがよかったもの、鈍感にやり過ごせばよかったもの、感じないほうがよかったもの、そういうものが日常の中には無数にある。それから逃げないことが、まず書きはじめるための条件だ。作家が小説や随想を書けるのは、絶えず関心をもって周囲の景色や出来事を見ているからだ。そういう心がけで暮らしていると、毎日が濃密で充実したものとなる。文章を書くことを覚えると、そういう生活ができる。
 うむむ、ますます私もモノカキから作家に昇格したいと思いました。
 自分が、私こそが全知全能の神だと信じて書くこと。世界でいちばん上手な小説書きは自分だ。このうぬぼれを支えにして書きすすめ、最後まで書き切ること。
 そうなんです。あんたはまるで文才がないなんて、とんでもない誹謗中傷です。そんなことを言う人間を気にすることなく、あとで見返してやればいいのです。
 いやはや、作家になるのがいかに大変な仕事なのか、つくづく分かりました。それでも私はモノカキ転じて作家になるのを目ざします。だって夢のない人生って、つまらないでしょ。
(2008年6月刊。1429円+税)

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2008年9月27日

戦争の法のもとに

日本史(現代史)

著者:宮道 佳男、 発行:クリタ舎

 1945年8月6日、広島に原子爆弾が落とされた。その直前の7月28日、呉軍港にアメリカ軍が空襲をかけた。このとき、沖縄から発信したB-29が2機、そして艦載機も2機が撃墜され、アメリカ兵12人が捕虜となった。B-29の機長は、尋問のため東京へ護送され、残る捕虜11人が広島に残った。8月3日にはB-24の5機編隊が広島市街地を爆撃し、1機が高射砲で打ち落とされ、9人が捕虜となった。1人は住民に殺され、将校2人は東京へ護送されて、残る6人が広島に残された。
 そこで、アメリカ兵17人(23人説や11人説もある)が、広島師団内の拘置所に収容されていた。8月15日の終戦時にアメリカ兵が広島に何人生存していたのか、明確ではない。8月19日にアメリカ兵2人が死亡したことは確実だが…。結局、広島にいたアメリカ兵の全員がアメリカの原爆によって死亡した。
軍律裁判は軍法会議とは異なるもの。軍法会議は主として自国兵士の規律違反と罰するもの。敵前逃亡兵は銃殺が決まりである。軍律裁判は、戦闘地域とか占領地域で敵国民や被占領国民に対して占領国的違反を罰するものである。軍律裁判は、戦闘地域であるため、即決非公開、弁護人はなく、上訴もない。懲役もなくて、すべて銃殺ばかりという特殊性があった。それでも、少なくとも戦場における即決リンチ処刑よりはましなものだった。戦後、連合国が行ったA級戦犯そしてBC級の戦犯裁判は、この軍律裁判と同じものだ。
 この本は、原子爆弾で壊滅させられた広島にいたアメリカ兵たちに対して、軍律裁判で死刑に処せられようとするに至るまでを克明に描いています。
無差別爆撃は人道無視の暴虐非道の犯罪だ。だから死刑になるのも当然だ。このような暗黙の前提で裁判はあっという間に終わってしまいます。そして、やがて処刑されてしまいます。
 はたして、死刑に処する必要があったのか、あったとして、では軍の最上層部には責任がなかったのか、という疑問にぶち当たります。
 著者は、私の司法研究所での同期の名古屋の弁護士です。先日、箱根で開かれた35周年記念行事のとき、本人からサイン入りでもらいました。手術を受けて入院中に執筆し始めたということでした。実は、東京に出張したとき日弁連会館の地下の本屋にこの本を見かけたので、次のときに買おうと思ったところ、その次にはありませんでした。やはり本は買おうと思ったらすぐに買わなくてはいけません。
 それにしても、よく調べてあるなと感心しながら読みました。 
(2008年5月刊。1400円+税)

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2008年9月26日

金を追う者、追われる者

社会

著者:室井 忠道、 発行:オン・ブック

 サラ金は回収に絶対の自信(?)を持っている。嫌がらせと、しつこさという武器をなりふりかまわず使う。これには、大手も中小もない。取立てに関しては、ヤミ金業者と五十歩百歩だろう。
 多重債務者からの回収合戦は、ババ抜きのようだ。といっても、ゲームのトランプのように、ババが一枚入っているのではない。スペードのエースが一枚だけで、あとはすべてババという、ババ抜きゲームだ。だから、きつい取立てに一斉に入るのは当たり前のこと。
多重債務者をATMに群がる「振込み蜂」と呼ぶ。それは、人生そのものを削り取られていくことだ。それでも、その毎日を続ける。それが破産予備軍だ。
 月に2度、特別集中回収を行った。男性スタッフ6人が2人ずつのチーム3つに分かれ、回収に走り回る。一回の集中回収は2泊に及ぶため、ビジネスホテルに部屋をとる。
 深夜、管理(回収)が終了すると、回収してきた現金を持って3チームが社長の部屋に集合する。ベッドの上で、社長が現金を数え終わると、自動販売機で買ったビールを飲みながら1時間ほど反省会とも自慢会とも言えるときを過ごす。これが全員の楽しみだった。
 サラ金の取立てから逃れてきて社員になって取り立て側にまわっていた男性の話も出てきます。取り立てをしながら、わが身に思いを至していたようです。
サラ金悲劇というのは、特別な人に起きるのではない。
本書は、油断をしたり、つまらない見栄を張ったりすることで、自分を含めて誰にでも起きる出来事として13話がつづられています。サラ金の回収する側からみた人間社会の実相です。
ふだん回収される側の人々から相談を受けている私にとっても、大変勉強になる本でした。前に、この著者の『借金中毒列島』(岩波書店)を紹介したことがあり、著者より贈呈されましたので、ここに紹介いたしました。ありがとうございました。 
 秋分の日には彼岸花がたくさん咲いていました。黄金の稲穂には朱色の花が良く似合います。我が家の庭には、淡いクリーム色のリコリスがあちこちに咲いています。とても気品のある花です。見てるだけでさわやかな気分になってきます。縁取りがピンクの白いエンゼルストランペットの花、そして芙蓉の花も咲いています。秋の抜けるような青空の下で、花たちが美を競っているようです。
(2008年8月刊。1800円+税)

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2008年9月25日

天皇制の侵略責任と戦後責任

日本史(現代史)

著者:千本 秀樹、 発行:青木書店

 明治天皇は日本軍の朝鮮半島出兵には積極的だった(1894年)が、清国が乗り出してくると聞いて急に不安になった。そして、日清戦争の始まりは不本意であり、ストライキもやった。ところが、勝った勝ったとの報告が相次ぐと、最後の決戦を行って清国軍主力をたたくため、自ら中国大陸へ乗り込もうとする。大本営を旅順半島、さらには洋河口へ進めようとまでした。これは、さすがに政府・軍首脳部が反対して思いとどまらせた。
 うひゃあ、こ、これは知りませんでした。なんと、大本営を天皇自身が中国大陸へ持っていこうとしたなんて…。そりゃ、身の程知らず、無謀でしょ。
 日露開戦のとき、明治天皇はロシアを恐れていた。ふむふむ、なるほど、ですね。
2.26事件(1936年)のとき、昭和天皇は侍従武官長、軍事参議官会議、東京警備司令官という統帥の要に当たる組織や人物、さらに川島陸相らが反乱軍側に肩入れするなか、孤立しながらも強い意思を持って統帥大権をもつ者として鎮圧の命令を発し続けた。それこそが将軍たちの思惑を排し、2.26事件を4日間で解決する力となった。
張作霖爆殺事件は、関東軍の謀略事件であるが、この陰謀を昭和天皇は承認した。むしろ真相の徹底究明・軍紀粛清を目指した田中義一首相を罷免したことから、侵略的体質の強い関東軍を大いに力づけることになった。昭和天皇は政治に強い関心をもっており、田中義一首相に対して「辞表を出したらよい」とまで言った可能性がある。
 うひょお、そういうこともあり、なんですか…。
 1941年9月に開かれた御前会議で、日本開戦が正式に決まった。このときの昭和天皇の関心は、あくまでも戦争に勝てるかどうかであって、政治的に、あるいは思想的に平和外交を主張するものではなかった。いわば、「勝てるなら戦争、負けそうなら外交」というものであった。つまり、昭和天皇が日米開戦に消極的であったというわけではない。そうなんです。昭和天皇が開戦に消極的で平和主義者だったというのではないのです。
 終戦のときの「聖断」神話は間違いである。昭和天皇は、支配層の中では陸軍に次いでもっとも遅くまで本土決戦論にしがみついていた一人だった。ただし、それを放棄してからは、積極的に終戦の指導にあたった。そして、その結果、さらに多くの沖縄県民が犠牲になったわけです。
 1945年3月に始まった沖縄の地上戦について、昭和天皇に「もう一度、戦果を」という頭があったため、激戦が長引いてしまった。ポツダム宣言が日本に届いてからも、昭和天皇は、大本営の長野県松代への移転と本土決戦を覚悟していた。
 終戦後、昭和天皇はマッカーサーと会見したとき、次のように語った。
 日本人の教養はまだ低く、かつ宗教心の足らない現在、アメリカに行われるストライキを見て、それを行えば民主主義国家になれるかと思うようなものも少なくない…。
 昭和天皇から宗教心が足りないと言われたくはありませんよね。だって戦前の日本では、それこそ日本人は靖国神社にこぞってお参りしていた(させられていた)のではありませんか。
 この本は著者のゼミで学んだ学生(永江さん)が私の事務所で働いていますので、勧められて読みました。私の知らなかったことも多く、大変勉強になりました。ありがとうございます。
(2004年9月刊。2200円+税)

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2008年9月24日

ハンドシェイク回路

社会

著者:田島 一、 発行:新日本出版社

 いやあ、すごいすごい。ぐいぐい読ませる小説でした。現代の最先端企業の中で、何が起きているのか。エリート社員たちが過労死・過労自殺するのはなぜなのか。派遣社員ではない正社員がボロボロになるまで企業にこき使われている実態が克明に紹介されています。まさしく息詰まる展開です。ですから、ここには『蟹工船』のような悪臭のするドロドロした職場と暴力支配はありませんが、清潔で超近代的な職場の中でも企業の暴力的かつ非人間的な専制支配が貫いていることには変わりないことが分かります。
 問題は、そのような状況に労働者たちが唯々諾々と従うだけなのか、反抗し起ち上がる可能性がまったくないのか、ということです。この本には、長年、大企業の中で思想差別を受けてきた団塊世代の労働者も登場します。いえ、実は、その人が主人公なのです。
 大企業は、思想差別したことを裁判で認めて、差別撤廃を実行しました。だから主人公はプロジェクトチームに組み込まれ、過酷な労働現場に投げ込まれてしまったのです。定年間際なのに、納期に間に合わせるためには徹夜作業もこなさなくてはいけません。主人公の体調がおかしくなり、ついに休職・配置転換の申し出を決意します。
 ところが、エリート社員の方も異変が起きていました。取締役間近の責任者は過労のために入院するし、現場の中心となっている東大卒の技術社員も心身に変調をきたし、一時は自殺願望まで持っていたというのです…。
 電機メーカーの職場を克明に取材した小説です。迫真の描写にただただ圧倒されました。なにしろ、すごいんです。ぜひ、あなたも読んでみてください。職場の大変な状況がひしひしと伝わってきます。
 差別是正のあとに、このような形で仕事の負担となって現れるとは、思ってもみなかった。というより、それは見えなかったというのが正しいのかもしれない。
 タイムスケジュールで管理される開発の最先端の部隊に組み込まれると、個人としては時間がままならなくなってしまう。プロジェクトチームに入るというのはそういうことなのだ。
 このような業務に無縁の扱いを受けてきた者にとって、年齢を経てから就いた第一線の場はかなり厳しいものがあった。
 周囲の労働者が、ここまで働いているとは知らなかった。これまで、過酷な労働が牙をむいて襲い掛かってくることは決してなかったし、ある意味で差別という環境下で、自分は安全地帯にいたと言えるのかもしれない。だから、若者たちがこれほどまでに働かされ、仕事に絡めとられているという実態が十分に把握できていなかった。それが現実のものとして実感できたのは、プロジェクトチームの一員となって、責任を共有してからだった。
 長い間、職場から排除されて、若者との接触が絶たれていた。それは、支配層には都合がよかった。だけど今、やっと若者たちと力をあわせてやれるときが来たんだ。がんばらなくっちゃ。
 うん、うん、そうなんです。まったく同感です。団塊世代の私たちは、今こそ20代、30代の若者たちに声をかけ、一緒に行動していくべきなんだと思います。
 現場の若者たちの心の闇は深い。だいたい何かを一緒にやって、それを実現させたという経験がないんだから、何をやっても燃えないんだよね。
 この状況を変革しないことには、日本はいつまでたっても変わりません。アメリカにならってルールなき資本主義化に狂奔している日本ですが、せめてEU諸国のように節度ある人間尊重の資本主義国でありたいものです。今の大企業(メーカー)の最先端の職場の状況を知りたいみなさんに一読をおすすめします。 
 フランスで切手を買うのに苦労した話です。私は外国旅行に出かけたとき、ほとんど買い物はしません。なによりスーツケースが重くなるのが厭なのです。その例外は絵葉書です。これも貯まると重たくなりますので、切手を買って日本へ送るようにします。すると、日本に帰ってから、絵葉書を眺めながら、ああ、こういうことがあったな、これを見たねと思い出せる楽しみがあります。パリで切手を買おうとしたときのことです。自動販売機がありました。窓口には行列ができています。この自動販売機は送るものの重量を測らないといくらの切手なのか分からない仕組みです。それでマゴついてしまいました。そして一度に何枚も買えません。同じ操作を繰り返さないといけないのです。ところで、郵便局の出入り口には変なおじさんが待ち構えています。この人、誰なの。不思議に思いました。あとで、要するに物乞いの男性だったことが分かりました。誰か来ると、さっとドアを開けてくれるのです。来た人が、チップを素早く手渡す光景を見て、やっと思い当たったのです。
(2008年7月刊。2000円+税)

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2008年9月23日

江戸の武家名鑑

日本史(江戸)

著者:藤實 久美子、 発行:吉川弘文館

 江戸時代の人々がどんな生活をしていたのか、何に関心を持っていたのか、また、人々が裁判好きだったことがよく分かる本でした。実は、著者には失礼ながら、期待もせずに読んでいたのです。ところが、意外や意外、面白くて興味深くて、ついつい頁をどんどんめくっていたのでした。
 武鑑(ぶかん)はプロ野球選手名鑑のようなものだそうです。といっても、プロ野球にまったく関心のない私には、プロ野球名鑑といわれてもピンときませんし、手に取ったことも(手に取るつもりも)ありません。
 この武鑑は、江戸時代に生きていた大名家や旗本家の当主・その家族(隠居した父親・妻・嫡子)、その家臣、幕府の役人をほぼ一覧できる。しかも、文字ばかりではなく、陣幕や着物や駕籠(かご)などに付けられていた紋所や、江戸市中を行きかうときの行列道具などが分かりやすく絵入りで描かれている。
武鑑は、眺めていて楽しい。江戸の雰囲気、香りがする。
 武鑑は17世紀中ごろに出版されはじめ、大政奉還(1867年)まで200年以上出版され続けた。武鑑は実用書であり、ロングセラーブックであった。武鑑は社会の需要にこたえて、年を追うごとに厚くなり、その改訂の頻度は年に数回から月に数回にまで増えた。
 武鑑は、19世紀には総丁数は500丁、600丁となり、厚さも10センチを超えた。だから、簡略化した略武鑑も出版された。こちらは懐や袂に入れて携行できるような1.5センチ以下の厚さだった。
 武鑑出版の老舗は須原屋(すはらや)茂兵衛と出雲寺(いずもでら)万次郎だった。いずれも民間の本屋が情報を収集して編集し、武鑑を出版した。須原屋と出雲寺は、武鑑の出版をめぐって、100年以上の攻防戦を展開した。
 江戸時代に本を出版するには、仲間株のみでは不十分で、さらに板株(はんかぶ)を取得する必要があった。板株とは、書籍を出版する権利のこと。単独で所有する丸株と、数人でもちあう相合株とがあり、いずれも板木を所有することを基本条件とした。
 須原屋と出雲寺のあいだの民事裁判(出版差止を求める訴え)は、何回となくたたかわされた。
 江戸時代の人々が文章をよく書き、裁判も辞さず、うえからの押し付け和解を拒むこともあったこと、裁判は証拠(書証)のない方が不利になったことなども分かります。
 日本人は昔から裁判が嫌いだった、というのは、まったく根拠のない嘘なのです。
 私も一度は武鑑の現物を手にとって見てみたいと思います。といっても、崩し字や草書体では、さっぱり意味が分かりません。ここが素人のつらいところです。 
(2008年6月刊。1700円+税)

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2008年9月22日

源氏物語を読む

日本史(平安時代)

著者:瀧浪 貞子、 発行:吉川弘文館

 紫式部が「源氏物語」を書き始めたのは、11世紀はじめ、一条天皇のころ(1007〜12年)というのは間違いない。
 いやあ、なんと今からちょうど1000年前のことなんですね。驚きました。
当時は、摂関時代の全盛期で、藤原道長が左大臣・内覧として権勢をふるっていた。摂関家全盛の時代であるにも関わらず、「源氏物語」の主人公は藤原氏ではなく、賜姓源氏であり、しかも、その物語はその源氏の栄華を賛美した内容である。不可解だ。
 紫式部が「源氏物語」を書くうえでもっとも意識したのは、清少納言の書いた「枕草子」であった。宮仕えについていうと、清少納言のほうが先輩であり、二人が宮中で顔をあわせたとは考えられない。清少納言の仕えた定子は、1000年に亡くなり、その後まもなく清少納言は宮廷を退いている。紫式部が出仕したのは、それから5,6年後のことだった。
 「枕草子」に一貫するのは、定子を中心とする宮廷サロンや中関白家(なかのかんぱくけ)の賛美で、不幸や悲しみはほとんど書かないという姿勢である。現実に起きた中関白家の没落のさまは「枕草子」ではまったく排除されている。ひたすら中関白家の栄華に終始している。
 これに対して、紫式部は事実を追究しようという強い姿勢を貫いた。藤壺や光源氏の人物造形は、紫式部の正確な歴史認識の上に立ってなされている。
 源氏は、いかに器量の持ち主であっても、皇位とは無縁の存在であった。源氏は世間から「更衣腹」と蔑まれ、差別された(「薄雲」の巻)ことが親王になれず、臣下とされた理由となっている。
 摂政とは、もともと上皇の権能に他ならなかった。上皇不在のとき、それに代わりその立場を踏襲する形で登場したのが摂政ないし関白だった。
 紫式部は、摂関制を否定したのでもなければ、道長を批判したのでもない。事実はその逆で、摂関制が登場した道理を解き、むしろその栄耀を喝采したのが「源氏物語」であった。
 ふむふむ、なるほど、そういうことだったのですね。
 「源氏物語」の朱雀は、実在の朱雀天皇をモデルにしたものではない。
 在位中は「帝」と呼び、譲位後は「院」と称して、それぞれの立場の使い分けをしている。
 中宮は、慣習的に天皇の生母=国母の愛称とされ、皇后よりも重い扱いを受けてきた。『源氏物語』は、政治・社会・文化など、あらゆる分野にわたって史実が書かれている。
 うひゃあ、そ、そうなんですか。単なるフィクションの宮中恋愛物語ではないのですね。
 物語の享受者は女性であった。この時代の女性たちは、おおむね物語とともに育っていった。
 当時の政治は、天皇を中心として父方の父院・皇部・源氏、母方の母后・摂関・外戚などといった、天皇の血縁・婚戚関係にある人々、つまり天皇のミウチが共同で行うものだった。ミウチ政治のもうひとつの特色は、公卿など高位高官の座を天皇のミウチが独占したこと。
 摂関家の王家に対する外戚関係が断絶して外戚・母后が権威を失った結果、ミウチ政治は書いた医師、父院が天皇に対する父権を背景に権威を権力を独占する体制が生まれた。院は成人天皇を幼主に交代させることで、唯一の政治主体の地位を保った。その院の権威の源泉は天皇の父権にほかならない。天皇がわが子でないとすれば、院の権威は崩壊する恐れがあった。
 上流貴族は、元服時かそれに近く、親の決めた相手と結婚する。だから男が自分で恋をしたいと思うころにはすでに「妻」(さい。嫡妻、正妻)がいる。だから、恋の相手はおのずから妻以外の女性である。しかし、親と親とが決めた結婚だから、容易に離婚はできない。妻とは原則として同居する。「通い婚」という婚姻形態があるのではない。妻以外の女性には「通う」以外に逢う手段がないだけのこと。愛人の女性とは、もともと「結婚」していないのだから、別れても離婚ではない。法的結婚以外の関係は、はじまるのも終わるのも現在と同じで、当人次第なのだ。
 平安時代には一夫多妻が認められていたのではない。平安時代も一夫一妻制である。妻と妾とには、明確な区別がある。妻には法的な保護があるが、妾にはない。
 ひえーっ、そ、そうだったんですか。初めて知りました。
 恋愛物語としての「源氏物語」を動かす中心点は、嫡妻(正妻)の座にある。他に「妻」がいては、どんなに男から愛されていても、幸せとはいえない、というのが当時の一般的な考えだった。それほどに、「妻」の座は平安時代の女性にとって重い存在だった。
 むむむ、な、なるほど、これはまったく私の認識不足でした。これでは、現代日本と大いに共通するところがあるではありませんか…。こんな衝撃的事実を認識できるから、やっぱり、速読はやめられません。 
(2008年5月刊。740円+税)

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2008年9月21日

NGOの選択

アメリカ

著者:日本国際ボランティアセンター、 発行:めこん

 日本国際ボランティアセンター(JVC)が発足したのは、1980年のこと。インドシナ難民の支援に始まり、カンボジア、アフガニスタン、イラクなど、さまざまな紛争地で活動してきた。JVCの特徴のひとつは、紛争状態にある地域での人道的支援活動と併せて、長期的な開発協力をもうひとつの柱としている。
 アメリカ軍はアフガニスタンで、PRTと呼ばれる軍による人道的支援活動を展開している。アメリカ軍によるPRTは、対テロ軍事作戦と一体となっている。そのため、PRTが活動する地域では、NGOが軍事衝突に巻き込まれやすい。危険な地域だからアメリカ軍が人道支援をするのではなく、アメリカ軍が人道支援をするためにNGOが危険にさらされている。
 テロリストから攻撃される危険のあるところで、丸腰のNGOは活動できない。だから、武装した軍が復興支援を担うしかないというのがPRTの論理だ。しかし、アメリカ軍は、アメリカ軍自身による援助が必要だとされる治安の悪化を自ら作り出しているのが現実の姿である。そして、PRTの援助自体が復興開発支援で不可欠の住民参加、公平性と持続性という原則からかけ離れているために、一時的に住民の歓心を買うことができても、長期的に住民の自立を促すことには繋がらない。
先日、JVC代表理事の谷山博史氏の講演を聞く機会がありました。ペシャワール会の伊藤さんがアフガニスタンで殺害された直後でしたので、その点にも触れた講演でした。以下、谷山氏の講演要旨を紹介します。
 第一に、アフガニスタンの情勢は最近になって急に悪くなったのではない。
 第二に、地元の人に信頼されてペシャワール会は守られてきた。それでも今度のような事件が起きた。地元の長老が犯人と交渉中だという報道があったので、地元の論理で解決されるものと期待した。ところが、警察が犯人を追い詰め、アメリカ軍がヘリコプターで追跡している報道があったので、これは危ないと思った。
 第三に、日本のメディアの動きを注目していたが、先の「自己責任論」大合唱のようなバッシングは幸いにも起きなかった。それでも、アメリカ軍が支援をやめたらタリバン以前に後戻りしてしまうという論法が一部で声高に出ている。しかし、これは国際社会への不信を駆り立てるものでしかない。
軍隊による人道支援というのは、とても危険なもの。NGOの活動と軍事行動との境界があいまいになってしまう。軍隊を派遣していないからこそ、日本の援助はアフガニスタンの人々から高く評価されてきた。日本は、軍事的な支援に固執することなく、周辺国を含む紛争当事者の包括的な和平に向けた協議を主導して進めてほしい。
 これらの指摘に、私はまったく同感でした。 
(2008年5月刊。740円+税)

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2008年9月20日

草すべり

社会

著者:南木 佳士、 発行:文芸春秋

 この著者の文章は、ちょっと働きすぎて疲れちゃったな、そんな気分のときにすーっと胸にしみいる気がします。
 浅間山、千曲川、佐久平・・・。中年になると、山登りもきつくなります。それでも山に登りたくなるのです。そのときの心の微妙な揺れ動きが、哀愁の響きとともに語られます。
 著者とおぼしき医師が登場します。死にゆく患者を看取ると、医師のほうにも疲れが募り、医業のむなしさにぶつかってしまいます。
 山歩きは、どこかしら書く作業に似ており、書かれた言葉が次の言葉を呼んで、物語の世界が少しずつ様相を変えながら構築されていくのと同じで、汗にまみれて到達した頂からの眺望が次の目標を無意識の中に植え込み、新たな山域の清浄な大気は、さらに先へと向かう意気の燃料となる。
 芥川龍之介の『河童』が紹介されています。はてさて、高校生の頃読んだはずだが、いったいどんな内容だったのだろうか、と思いました。さっぱり思い出しません。『河童』は、芥川が36歳で自殺する5ヶ月前に発表された作品だそうです。今一度読んでみようかな、と思いました。
 著者の本をもとにした映画「阿弥陀堂だより」を思い出しました。素晴らしい四季折々の大自然とともに、しみじみと人生を考えさせてくれる傑作でした。
 パリやトールーズの街角のあちこちに自転車置き場を見かけました。いかにも貸し自転車という感じで、パーキングメーターにつながれています。若者が近寄って、ひょいと乗って立ち去る姿を何回も見ました。最近のNHKフランス語講座で、これはヴェリブというシステムだと教わりました。先日の新聞記事でも紹介されていました。市民が保証金を支払って登録すると、30分以内ならタダで自転車に乗れ、どこででも返すことができるというのです。しかも、協賛企業に費用を負担してもらっているので、市の負担はないとのことです。パリ市内だけで2万台の自転車が用意されているそうです。自動車を市街地から減らすためのいいアイディアだと思いました。
(2008年7月刊。1500円+税)

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2008年9月19日

渥美清の肘突き

社会

著者:福田 陽一郎、 発行:岩波書店
 本書は、渥美清やクレージーキャッツをテレビの世界に引き入れ、越路吹雪にテレビ一人芝居をさせ、三谷幸喜が演劇を志すきっかけをつくり、夏目雅子の最初で最後の舞台を演出した鬼才の貴重な自伝だ。
 これは、本書の表紙ウラの言葉です。昭和7年(1932年)生まれだそうですから、今は76歳になる著者がテレビ草創期のエピソードなどを含めて、自分の人生を振り返ったものですが、貴重な現代史の証言となっています。
 私も前はテレビを見ていましたので、それなりに状況はわかるのですが、舞台を見たことは残念ながらほとんどありません。東京近辺にいたとき、『泰山木の木の下で』という確か劇団民芸の舞台を見たな、という程度です。樫山文枝(「おはなはん」を見て憧れていました)が登場した記憶があります。
 渥美清は、昔から舞台と映画を見に行っていた。著者も誘われてよく一緒に行った。舞台の後のお茶や食事の雑談が楽しみだった。渥美清と一緒に行ったときには、隣り合わせに座る。舞台が始まって15分か20分たつと、隣席の渥美清から無言の軽い肘突きが来ることがある。こりゃあもう駄目だから、一幕で帰ろうぜ、の合図なのである。
 この合図が、この本のタイトルになっています。渥美清は次のように言ったそうです。
 最初の15分でお客を舞台に引っ張り込めなければ駄目だ。よほどのことがなければ、あとは知れてる。
 渥美清の言うことには一理ある。最初の15分、20分で観客をひきつけられない、引っ張り込めないなら、盛り返すのは難しい。難しいといわれる芝居でも、説明や解説的なことで20分も費やしていたら、いい台本とも言えないし、いい演技・演出とはとても言えない。「肘突き」で困ることはまずなかった。渥美清の直感は正しいことが多かった。肘突きがあって休憩の合間に抜けた後は、時間もあるからその雑談のほうも何倍も面白かった。身振り手振りを変えて描写するので、腹を抱えて笑った。マドンナ女優を的確につかんでいた。そして若手の俳優をよく知っていた。柄本明の名前も渥美清から聞いて知った。
 なーるほど、なるほど、と思いながら昔を懐かしみつつ読み進めました。 
 フランスの駅で切符を買うのは大変です。自動販売機もありますが、コイン専用で札を受け付けません。ですから、ちょっと遠いところは窓口で買うしかありません。ところが、窓口にはいつも長蛇の列ができていて、20分とか30分とか待たされます。というのも、一人一人が駅員相手に観光案内所のように相談をしている気配なのです。だから時間がかかります。それで、時間のない人は列の先頭に割り込みます。後ろから文句を言う人には、だって時間がないものと言い返す厚かましさが求められます。これって、大変なことですよね。
(2008年5月刊。2400円+税)

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2008年9月18日

マネーロンダリング

アメリカ

著者:平尾武史、出版社:講談社
 ヤミ金の五菱会がスイスに51億円も預金していたと報道されたとき、あっと驚きました。ヤミ金が儲かる商売だとは知っていましたが、それほどだとは思っていなかったからです。この本は、そのスイスの銀行に51億円もの預金があることが発覚した経緯と、その後の顛末を追跡しています。
 プライベートバンクとは、個人資産を専門に管理したり運用したりする銀行のこと。ここでは1億円以上の預金ができるような富裕層のみがお客であって、それ以下の庶民はゴミ以下の存在に過ぎません。
 東京芝公園近くの超高層マンションは、私も上京して浜松町から霞ヶ関にある日弁連会館に向かうタクシーの中からよく眺めます。マンションの23階から35階は賃貸マンションとなっていて、家賃は月85万円。うひゃあ、誰がこんな高い家賃を支払えるのでしょう。なんと、そこにヤミ金の帝王たちが住んでいたのです。
 五菱会グループのトップに君臨していた梶山進は34階に家賃92万円の一室を借りていた。梶山は工業高校を中退した後、塗装工などをしていたが、新宿でヤクザとなり、ダイレクトメールや電話で勧誘するヤミ金を始めて大当たりした。そして、梶山は稲川会系から山口組へと転身した。
 ヤミ金でボロもうけしたお金の一部は、ラスベガスのカジノで遊ぶための保証金として日本国内の銀行の貸金庫に預けることが出来る。梶山は200万ドル(2億円)も預けていた。梶山はカジノでVIP待遇を受けていた。そのなかでも最上級の「鯨」クラスである。
 カジノでは上客用の特別個室を利用していた。ディーラーをこの部屋に呼び込み、一回の掛け金は通常で100万〜200万円。多いときは1時間7000万円ももうけた。
 梶山は香港在住で、クレディ・スイスのプロパーを通じて、スイス銀行に51億円預けることが出来た。
 組織犯罪処罰法で問題となる犯罪収益の中には脱税が入っていない。そして東京地裁は、ヤミ金グループ幹部に対して、クレディ・スイス香港に不正送金されたお金について追徴(国による没収)を認めなかった。追徴しないと、被告人の手に戻ってしまう可能性もある。そこで、法律を改正して、このようなときには国が没収して被害者へ分配することが出来るように改正された。
 今、その被害者への分配が進行中です。ところが、ヤミ金グループがあまりにも多くいるため、どのヤミ金が五菱会に該当するのか、資料不足もあって多くのヤミ金被害者が届け出しにくい実情があります。
 それにしても、こんな違法な犯罪収益を暴力団から確実に取り戻し、吐き出させるのは、税務署当局の今すぐなすべきことではないでしょうか。 シカゴのギャング王であったアル・カポネを逮捕して下獄させたのは、エリオット・ネスの脱税取り締まり班でした。日本にも「アンタッチャブル」が欲しいように思います。
 フランスで久しぶりにトラベラーズ・チェックを使いました。パリのホテルで50ユーロ使ったのですが、おつりをくれません。今やトラベラーズチェックなんて、時代遅れで、嫌がられるだけの存在のようです。
 エクサンプロヴァンスのホテルのフロントで両替を頼んだところ、銀行でしてくれと断られてしまいました。土曜日なのにどうしましょう。そこで、カードで現金を引き出せるか試してみることにしました。すると、暗証番号を入力したらユーロのお金が出てきたのです。日本のカードをフランスで使ってユーロ札が出てくるなんて、不思議な気がしました。街角にある両替所より、きっと手数料は安いと思います。カードさえあれば、現金をあまり持ち歩かずにすむというわけです。帰国して一週間もしたら、口座から引き落としましたという報告書が届きました。早いものです。ホント、便利になりました。この便利さって、正直言って、ちょっと怖いです。
(2006年9月刊・1700円+税)

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2008年9月17日

「百人斬り競争」と南京事件

日本史(現代史)

笠原十九司 大月書店

 靖国神社のご神体が刀だということを初めて認識しました。この本は、第二次大戦(日中戦争)中、日本軍が中国大陸において、罪なき市民や法廷で裁かれ捕虜待遇を受けるべき敗残兵を日本刀で虐殺していた事実をあますことなく立証し尽くしています。
 日本刀は、日本軍が戦時国際法に反して、中国軍の投降兵、捕虜、敗残兵、更に便衣兵の疑いをかけた中国人を捕獲し、座らせて背後から首を切り落とす、いわゆる「据え物斬り」には大変有効な武器であった。弾丸も節約でき、銃声もせず(周囲に知られる危険がない)、一刀の斬首によって絶命させられるので、銃剣の斬殺よりも処刑法として効果的だった。
 日中戦争で、日本から兵士が中国戦場へ送られ、戦傷者も多くなるに従い、護身用の「お守り」として、下士官・兵卒でも日本刀を携行するのが「黙認」されるようになっていった。親などが士征に際して餞別として与えていた。
 地方紙は、各地の郷土部隊の将兵の軍功を競って掲載し、戦場の手柄話が郷土の新聞に掲載されることは名誉として戦場からも歓迎された。
 日中15年戦争において、中国戦場には、何百・何千の「野田・向井」がいて、無数の「百人斬り」を行い、膨大な中国の郡民に残酷な死をもたらした。
 中国兵の捕虜を「据え物斬り」したというのは明らかに戦時国際法に違反する行為であるが、戦争犯罪行為をしているという意識は全くなく、上官・軍事郵便の検閲も「皇軍の名誉を失墜するもの」と考えないどころか、新聞に掲載させるに値する「名誉な」行為だとしていた。
 全国各地の新聞が実質のコピーと共に紹介されていますが、戦前の日本はまさに狂気の支配していた国であったことがよく分かります。武器解除された無抵抗の捕虜を斬首していった実情を新聞記事では戦場における白兵戦という勇壮な手柄話に脚色して報道していたというのが事実なのです。
 なにしろ師団長だった中島今朝吾自身が、日記に中国を捕虜として収容・保護せず、処理(殺害)する方針だったことを明記しているのです。
 そして野田少尉は、鹿児島で小学生を前に自らの武勇伝を語ったのですが、そのとき、「実際に突撃していって白兵戦の中で斬ったのは4,5人しかいない。あとは投降した中国兵を並ばせて片っ端から斬った」と述べ、聞いた小学生が「ひどいなあ、ずるいなあ」とショックを受けたという話が紹介されています。この小学生の感想はまともですが、世間一般は、あくまで武勇伝としてもてはやしていたのです。そこに日本社会の反省すべき汚点を認めなければならないと思います。これは決して過去の話ではありません。
 中国戦場にあっては、日本軍の将兵が軍民を問わず中国人を殺害するのは日常茶飯事だった。野田少尉が抵抗しない農民を無惨にも切り捨てた。そのことを士隊長も知っていながら黙認した。そして、マスコミも農民であることをぼかして報道した。
 著者は、南京大虐殺事件の被害者が「30万人」であったか否かという数字(人数)にこだわるべきではないと強調しています。私も、まったく同感です。「30万人」という数字にこだわると、日本側の「否定派」の思うツボにはまることになるからです
 二人の若手将校を「百人斬り競争」の英雄として喝采し、時代の寵児に仕立て上げた「異常な競争社会」が戦前の日本には実際にあった。日本刀は、捕虜にならない、捕虜はとらない、という兵士の使命を軽視し、人権を無視した行為を日本軍将校に強制する上での凶器となった。
 そして今日、少なくない日本人が「異常な競争社会」から目覚めていない、あるいは目覚めることが出来ていない。その根本的原因はどこにあるか。主要には、多くの日本人が「他人の足を踏んづけておいて、踏まれた人の痛みを考えもしない」自己中心的な思考の枠にはめられ、また、その枠を出ようとしないからである。
 「百人斬り競争」については、日本刀で斬首された中国人の立場を考えようともしないで、「できるはずがない」「やるはずがない」と常識論から簡単に否定してしまう。そして、左右のイデオロギーの「泥仕合」だと嫌悪して、歴史的な事実はどうだったのかについての思考を停止してしまう。
 加害者の側にある日本人としては、被害者の中国人の恐怖、衝撃、怨恨、憤激の感情を伴った記憶の仕方を理解するように努力することが必要である。
 そこに目を閉ざす者、南京事件という非人間的な行為を心に刻もうとしない者は、「異常な戦争社会」を到来させる危険に陥りやすい。
 いやあ、本当に鋭い指摘です。いっぱい赤鉛筆でアンダーラインを引きながら読み進めた本でした。
(2008年6月刊・2600円+税)

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2008年9月16日

一朝の夢

江戸時代

梶 よう子  文藝春秋
 時は風雲急を告げる幕末。しかし、下級武士の中には珍しい朝顔を咲かせるのだけが生き甲斐のような不埒な者もいる。そんな男が、いつのまにか幕末の大政変、桜田門外の変に巻き込まれていく。
 いやあ、見事なものです。こんな小説を私も一度は書いてみたいと思うのですが・・・。江戸時代末期、あの朝顔は多くの人の心をとらえて放しませんでした。今よりもっともっと多くの変種朝顔が世に現れ、人々がそれを愛でていたというのは歴史的な事実です。
 私も朝顔は大好きです。でも、意外に朝顔を育てるのは難しいのです。知っていましたか?
 私の庭には、今も朝顔が咲いています。去年の朝顔です。実は、何年も前からのものなんです。なぜか、色がいつも同じで、青紫なのです。これはわが家のフェンスにからまっている宿根性で、外来種の朝鮮朝顔と同じです。鮮やかな紅色の大輪の朝顔が私の好みなのですが、去年咲いていても今年は咲いてくれません。それじゃあ、と思ってタネを植えても、大きくならないし、ましてや花を咲かせてくれません。チューリップだと、植えたら何もせず放っておいても9分9厘ちゃんと花を咲かせてくれます。朝顔は、よほど気むずかしい花なのでしょう。
 主人公の興三郎は北町奉所勤めの「八丁堀の旦那」である。ただし、吟味方や定町(じょうまち)廻りや隠密廻りなどといった、奉行所でも花形のお役目ではなく、両組御姓名掛りという奉行所員の名簿作成役であった。所内でも閑職の筆頭としてあげられる役だ。
 江戸には南と北の奉行所がある。今月が南町で月番だとすると、北町は非番だ。非番だと言っても休みになるわけではない。月番の時に持ち込まれた山と積まれた訴状や吟味の未決分を処理している。月番奉行所は門を八文字に開き、訴訟や事件などの類を受けつける。非番の奉行所は門を閉ざし、潜り戸はあけているが、訴訟などは受けつけない。
  朝顔の種は、牽牛子といい、下剤や利尿などに用いられる。朝顔の種子は半月型である。弧の部分を背と言い、直線の部分を腹という。片側の端にある小さな窪みはへそと呼ばれている。
 へそを傷つけないように、背と腹の境界に傷を付ける。これを芽切りという。土に指の先端を刺し、つくった穴にへそを上にして種子を入れる。
 江戸時代、朝顔は何度ももてはやされた。朝顔の品評会を花合わせという。植木屋はもちろんのこと、商人・町人・武家といった朝顔愛好家から出品された朝顔の優劣を競う。その結果は番付にして発表される。
 朝顔にはいろんな色がある。しかし、黄色の朝顔だけはない。朝顔は、どんなに美しく咲いても、花は一日で萎れてしまう。つまり、槿花(きんか)、一朝の夢だ。これは一炊の夢と同じ例えである。
 朝顔は自家受粉、つまり自らが自らの花の中で受粉する。だからツボミが開かないようにしても種子はできる。
 江戸の変わり咲き朝顔を紹介する本もあります。江戸時代の人々は、現代の私たちが想像する以上に多種多様な生き様を認め合っていたように思います。ひえーっ、こ、これが朝顔なの・・・。こんな悲鳴ををつい上げたくなるほど、ものすごい変わり咲きの朝顔が毎年出品・展示されていたというのです。それには、人々の心の豊かさがなければ、とてもできないことだと思いますよ、私は。あなたもそう思いませんか・・・。
 すみません、この本のストーリー展開はあえて紹介しません。お許し下さい。 
 南フランスの町のあちこちで、大型犬を連れた若者たちを見かけました。いえ、大型犬を連れたおじさんやおばさんもよく見かけたのですが、若者たちは、なんだかホームレスっていう感じで気になったのです。しかも、一人で二匹も三匹もの大型犬を連れて歩いているのを見ると、犬たちの食糧費だけでもバカにならないだろうと心配しました。アルルでは、3匹の大型犬を連れた物乞い(おじさん)がいました。教会の階段に、犬たちは寝そべって、ヒマをもてあましているように思いました。
(2008年6月刊。1524円+税)

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2008年9月14日

アンディとマルワ

アメリカ

ユルゲン・トーデンヘーファー 岩波書店
  イラク戦争で、アメリカ兵が既に4000人も亡くなりました。イラクの人々はその何十倍も殺されています。こんな数字の裏に、一人ひとりにかけがえのない人生があったこと、それがある日突然に奪われてしまったことに、私たちはなかなか思いが行きません。この本は、アメリカとイラクの二人の子どもを通じて、アメリカによるイラク侵略戦争の悲惨な実態を浮き彫りにしています。
 そのとき、誰がこの本を書いたのか、それはどういう立場の人物なのかが問題になるでしょう。著者は、なんとドイツの保守的政治家だった人物です。ドイツ最大の保守政党CDU(キリスト教民主同盟)の議員であり、親米と反米主義を唱える右派議員として名高い人物でした。今は政界を引退していますが、ソ連によるアフガニスタン侵略にも抗議する勇気ある行動を起こしています。そのような経歴のドイツ人の語る言葉に耳を傾けるのも悪いことではありません。
 不正には不正で、テロにはテロで抵抗すべきではない。その国が民主的な法治国家であるかどうかは、敵をどのように扱ったかによって分かる。テロリストと同じ土俵に乗ってはならない。
 戦争は人間の卑しい本能を呼び起こす。アブグレイグ刑務所の捕虜虐待事件は事故ではない。イラクに対する横暴な戦争の当然の結果なのだ。残酷さや人間に対する軽蔑は伝染する。フェアな殺人や強姦がないように、フェアな侵略戦争もあり得ない。
 侵略戦争はまた、政治学や戦略家たちによる前線の若い兵士たちに対する裏切りでもある。兵士たちはいつも、侵略ではなく、防衛だと思わされている。そして、政治家たちは、自分やこどもたちが戦争へ送られる心配なしに、書斎や居間でのうのうと戦略を練っている。
 アメリカ海兵隊員(予備兵)として、18歳でイラクにおいて戦死したアンディはヒスパニック系で、フロリダ州立大学で経営学を学ぶつもりだった。ある日、アンディは海兵隊の広告を読んだ。資料を請求した人には、もれなく重量挙げ用のグローブをタダでくれるという。アンディはそのグローブが欲しかった。資料を請求すると、格好いい徴募係がやってきて、熱心に海兵隊入りをすすめた。予備兵として登録するだけなら・・・。アンディはいつのまにかイラクの戦場へ送られ、戦場で砲撃に当たって即死してしまった。
 イラクの少女マルワは12歳。イラク戦争が始まり、妹を殺され、自分も右足切断の大ケガをした。父親は戦争前に病死していた。著者は、マルワをドイツに招いて治療を受けさせた。そして、マルワの医師になりたいという夢を叶えてやるべく奨学金を送り続けている。
 個人の善意には明らかに限界があります。でも、こうやってイラク戦争で殺され、傷ついていった人々の詳しい実情を知らされると、この間違った戦争は一刻も早く止めなければいけない。そのために、日本と世界は何をしなければならないのか考えさせられます。
 
(2008年3月刊。1700円+税)

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2008年9月13日

フランスに学ぶ国家ブランド

世界(フランス)

著者:平林 博、 発行:朝日新書

 フランスは超大国ではない。核保有国であり、国連の安全保障理事会の常任理事国であるが、経済規模や人工などの観点からすると、中規模国家である。面積を除いて、日本の方が経済力などで上まわる。しかし、フランスには独特の国家ブランドがある。フランスには、独自の「国のかたち」があり、強い発信力がある。
 そうなんですよね。まるで下駄の雪みたいに、踏まれてもバカにされてもひたすらアメリカの言いなりになる日本とはまったく違って、フランスは独自路線を少しでも強調しようとします。もっとも、今のサルコジ大統領は露骨な親米政策を打ち出していますが…。
 サルコジはかつてトヨタ自動車がフランスに進出するに当たって、弁護士としてアドバイスしたことがあり、トヨタの招待で日本にも一度来ている。サルコジの父はハンガリー貴族であり、ソ連赤軍から逃れてフランスに亡命した。母はギリシャ出身のユダヤ人。サルコジはパリ大学は卒業したが、グランゼコール(シアンス・ポ)に入ったものの卒業はしていない。フランスのグランゼコールというのはエリート中のエリートを輩出する大学です。
 フランスは欧州諸国の中でもっともユダヤ人が多い。60万人いる。フランスを旅行すると、町並みを出た途端、豊かな田園風景が広がる。
 フランスは穀物、乳製品、ワインなどの生産量は自国民の消費量を上まわる。果物や野菜も十分に生産しているが、輸入もしている。カロリー・ベースで計算したフランスの食糧自給率は122%(2003年)。フランスより自給率が高いのは、オーストラリア(237%)、カナダ(145%)、アメリカ(128%)である。
 フランス人は食料の安全保障を当然に必要なことと考えている。
 そうなんです。そこが日本と決定的に違います。日本人は、政府の間違った食糧政策を盲信させられています。食べ物は、お金さえあれば好きなように買えると思いこまされています。でも、そんなことは決してないのです。食料と水は、今や世界を制覇する道具と化しているのです。少なくとも、食糧自給率の向上に今すぐ日本政府は真剣に取り組むべきです。だって、日本の食糧自給率は、せいぜい40%しかないのですよ…。
 フランスの就業人口の4分の1は公務員か国営企業に勤める準公務員である。
 今の日本では、公務員を一人でも減らしたらその政治家の大手柄になります。一方では政治家の口利きと称して子弟を公務員として送り込んできたわけですが、目下、そのことが最大争点の一つとなりつつあります。
 また、フランスでは、いくつかの宗教系の私立学校を除いて、学校はすべて公立ないし国立である。入学金も授業料もごくわずか。北欧となると、そのいずれもタダだそうです。
 ニースから電車に乗って、カーニュシュルメールというところに行きました。駅前に無料のシャトルバスがあるとガイドブックに書いてありましたが、見あたりません。駅から歩いてルノワール美術館を目指しました。強い陽射しを浴びながら坂道をのぼっていったのです。ちょうど昼前のことでした。なんと、午後2時まで昼休みだというのです。汗が一度に噴き出してきました。仕方がありません。もう一つの目的地である古城にまわり、一休みしたあと、再びルノワール美術館に出かけました。オリーブの木が植えられている広大な丘にルノワールが晩年を過ごした建物が残っていました。ルノワールの絵って、本当にいいですよね。見ていると、気持ちがほんわか、ゆったりしてきます。暑いなか苦労してたどり着いた甲斐はありました。
(2008年5月刊。740円+税)

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2008年9月12日

宇宙の向こう側

宇宙

横山 順一・竹内 薫  青土社
  ビッグバンは宇宙の始まりではない。ビッグバンには「前」がある。宇宙が始まって、何かものすごいことが起きてから、ようやく「ドカン」と宇宙は爆発した。
 量子力学の特徴は揺らぎというものがあること。ビッグバンは宇宙の中で起こるけれども、起こっていることは、私たちには見えない。それは私たちにはブラックホールが出来ているようにしか見えない。
 量子とは、「とびとびの値をとる」という意味。数値が連続してなめらかに変化していくのではなく、とびとびの値しかとらないということ。量子化された状態というのは、デジタル時計のようなもの。いろんな量が、とびとびの離散的な値しかとらない、その意味で、デジタル的な世界というのが量子力学の描く世界である。
 量子は状態を表すものであって、個性がない。
 量子力学の一番の特徴は、ある状態をぴたっと特定できないこと。例えば、ある粒子に着目したとき、その粒子が今どこにあるのか特定できない。もっとモヤモヤした状態でしか言えない。位置と速度を同時に決めることが出来ない。そんな不確定性関係にある。そのモヤモヤこそが、ある意味で、宇宙の全ての構造のもとになっている。
 いろんな宇宙がある。実は、近いところに別の宇宙がポーンとあるかもしれない。あるけれども、全然見えていない。
 私たちの見える範囲、差し渡し140億光年の宇宙というのは、非常に綺麗なかたちをしていて、つるつるで綺麗なもの。140億光年しか見えないからと言って、そこで宇宙が終わっているわけではない。もし140億光年離れたところまで行くことができれば、その先も見えるはず。しかし、行くことが出来ないのでそこから先は想像するしかない。端は、今みえている範囲の500倍以上は遠くにあるだろう。
 200億年経てば、あと200億光年を見渡すことができるというように、時間が経てば見える範囲が広がる。しかし、そのあいだにも宇宙はどんどん膨張していくので、ぐしゃぐしゃな場所もさらに遠ざかっていってしまう。見えるようになるよりも遠ざかる(宇宙が膨張する)スピードのほうが速いので、追いつくことはできない。宇宙の果ては、恐らく、いくら時間をかけても見ることはできない。
 アインシュタインの理論では、地球があると、地球のまわりの空間が曲がる。
 現在、遠くにたくさんの銀河が見える。これらの銀河はどんどん遠ざかっていって、1000億年もしたら、一個しか、つまり私たちの住む銀河しか見えなくなる。ほかの銀河は遠ざかって見えなくなってしまう。それだけ宇宙の膨張は速い。
 ただし、人類があと1000億年もつのかどうか・・・。生命が誕生して38億年というので、更にこれから1000億年ももつのかどうか、ということだ。
 宇宙には、人間を構成しているバリオンとよばれる物質が4%、銀河の周りに目には見えないけれど重力を測ることによってあることが分かるダークマターが22%、それ以外にダークエネルギーが74%あることが分かっている。この宇宙全体で7割以上を占めるダークエネルギーが、つい最近まで、存在することすら分かっていなかったというのは、極めて面白いことだ。今、宇宙に関しては、ダークエネルギーが一番の課題。
 ううむ、宇宙のことはともかくスケールが大きいですね。人生わずか50年と信長は桶狭間の合戦の前に歌ったそうですが、ここで登場するのは何億年というスケールなのです。まるで人間業ではありません。
 
(2008年6月刊。1800円+税)

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誘拐

著者:五十嵐貴久、出版社:双葉社

  スタートは会社のリストラから始まります。中高年でリストラされたら、いまの世の中、はっきり言って、お先まっ暗です。ですから、一家心中に結びついても何の不思議もありません。
 目先の利益しか追わない投資会社やら銀行がつぶれかかった企業に乗り込み、大胆なリストラを強要します。リストラは、する方にも大きな心の傷を残します。ましてや、リストラを言い渡した相手が一家心中でも図った日には、一体どういう心境になるでしょうか・・・。
 ここから話が始まります。そして、警視庁vs頭脳犯の対決が展開していきます。警視庁は捜査一課特殊捜査班が登場します。首相の孫娘が誘拐されてしまったというのですから、国家の一大事です。
 通常、誘拐事件の捜査は最低でも2000人体制で臨むことになっている。
 誘拐事件は、いわゆる犯罪事件の捜査とは違い、基本的にはただ犯人からの連絡を待つことがほとんどの時間を占める。当然、その間は常に強烈な緊張を強いられている。
 それは、学者の言う「強いストレスにさらされている状態」を意味する。
 人間の集中力には限界があり、通常、4時間までは保たれるが、強いストレスのある場合には半分の2時間で集中が途切れてしまう。
 そこで人海戦術が採られる。6人編成の犯を6チーム作り、2時間おきに交替させる。警視庁の誘拐捜査マニュアルによると、最低でも4チーム、3時間毎に交替することになっている。そして、睡眠は最低6時間とらなければならない。
 犯人が現金を要求したとき、お金を入れるバッグは特別仕様。72時間連続稼働するデジタル発信機と録音機が仕込まれている。お金の帯封には、ICチップを利用した、薄さ1ミリ、幅3ミリの発信機が貼り付けてある。
 推理小説ですから、ここで種明かしをするわけにはいきません。私も途中で、なんだかおかしいな、これってどうしてかな、と思ったところが、最後のどんでん返しの伏線になっていました。なかなか読ませる面白い警察小説でした。
(2008年7月刊・1500円+税)

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2008年9月11日

ケータイ・ネット時代の子育て論

社会

著者:尾木直樹、出版社:新日本出版社
 私の法律事務所でも最近、ケータイにホームページを開設しました。今のところ、毎週140人ほどのアクセスがあります。もちろん、まだまだです。名刺や封筒にQRコードを刷りこんで大いに宣伝しているところです。今や若者のほとんどが手にケータイを持っている時代です。そこへアクセスして客を誘引しようという試みです。ちなみに、作成したのは最若手の事務職員です。したがって開設費はタダ。運営費もタダなのです。いやあ、信じられませんね。
 ケータイが鳴ると、多くの子は即座に返信する。このレスポンスが15分も遅れると、その子は「友人」のワクからはずされてしまう。メールの送信回数が1日41回以上の生徒は、5回以下の生徒に比べて、男子で1.7倍、女子では1.4倍も、いじめの加害者になっている割合が高い。
 小学校や中学校でいじめにあった被害者のうち、高校で加害者側に転換した者は、一貫した加害者に比べ、何と17倍にも達している。
 今やメールで知り合い結婚にまで進むカップルも珍しくない時代である。
 実際、私の知っている弁護士本人、そして弁護士の妹さんがメールで知りあった相手と結婚して、幸せな家庭生活を営んでいます。いかがわしい「出会い系サイト」ばかりではないのですね。
 親が子育てにどう関わるかで、最近、目立った特徴がある。それは、父親が子育てに参加するのがきわめて多くなったということ。授業参観に参加する父親は2割くらいいるし、学習塾の説明会となると6割になることもある。大学でも入学式から就職説明会まで保護者同伴が当たり前となった。
 そして、それはモンスターペアレントがダブルモンスターになることもあることにも直結している。つまり、父親が「まあまあまあ」と言う止め役、なだめ役にまわるのではなく、夫婦一緒になって興奮しながら教師や学校に抗議し続ける姿である。
 しかし、父親と母親とが同じ立場から子どもの教育に熱を入れ口出しすると、子どもが逃げ場を失いかねない。まずは、離れた目線で、子どもの表情や態度を観察してみる必要がある。そうなんですよね。でも、これって、口で言うのは易しでもあります。
 最近、連続して起きた家庭内殺人の家庭には共通の特徴がある。親が地域の名士、高学歴で社会的地位の高い職業に就いている、加害少年少女はまじめで成績優秀、という傾向。その子どもたちは受験などへの親からの圧力にさらされている。
 また、これらの少年少女には自尊感情がたくましく育っておらず、自己肯定感がきわめて脆弱である。家庭が心安らぎホッとできる居場所ではなくなり、息詰まる緊張感や抑圧感に満ちていた。
 うむむ、かえりみると、わが家は果たしてどうだったのでしょうか。胸に手をあててみて、深く反省せざるをえません。子どもに対して、かくあれかし、というのを強く押しつけ過ぎたように思って、顔から汗が噴き出してしまいました。一言、弁解すると、まあ、それだけ真剣に子育てに向かいあってはいたのですが・・・。ネット、ケータイ時代において子育ては、一段と難しいと思ったことです。
(2008年1月刊。1500円+税)

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2008年9月10日

不機嫌な職場

社会

著者:高橋克徳・河合大介ほか、出版社:講談社現代新書
 仕事というのは、言われたことをやるだけでなく、言われていないことをやることだ。そう、そうなんです。まさに、このとおりです。言われたことを、渋々、少しばかり手抜きして、能力の出し惜しみをしてするのは本当に仕事をしたことにはなりません。
 グーグルでは、採用面接のときには、20人近くが候補者と面接する。そのときに重視するのは、スキルはもちろんのこと、他のグーグルの人と一緒に働けるか(コワークが出来る人かどうか)という点と、その人が自分で動ける人(セル)スターターの人かどうかという点である。
 グーグルでは社員の個室をつくらない。日本法人では、社長もオープンな場所に自分の机がある。物理的な壁をつくらないということだ。
 別の会社のことです。2年間はたらくと5日間(休んでファイブ)、5年間働くと1ヶ月(休んで1ヶ月)のリフレッシュ休暇が与えられる。いやー、いいですね、これって・・・。頭というか発想を切り換えるには、なんといってもゆとりが必要ですよ。
 私も40歳代前半のころ、北九州第一法律事務所にならって、40日間のリフレッシュ休暇をとったことがあります。パリに前後泊したほか、南フランスのエクサンプロヴァンスで4週間近くの外国人向けフランス語夏期集中講座に参加したのでした。日本のことを一切忘れてフランス語の勉強をして、本当に心身のリフレッシュになりました。
 築城3年、落城1日。協力につながる信頼関係は、壊すのは簡単だが、構築するのには時間がかかる。一般に、社内の関係性が明らかに変わりはじめるのには3年くらいかかる。そして、継続の力を人に与えるものは、信念である。
 自分の仕事で最高の仕事をしたかったら、周辺分野の知見をあわせ持つことが必要だ。 うむむ、なるほど、と私も思います。お互いがタコツボに入り込んでしまうような状況をつくらず、お互いをよく知る。お互いの意図や人となりを知ることのできる状況をつくり出す。そのうえで、根源的な感情、つまり感謝や認知を通じた効力感というインセンティブが働くようにする。
 うーん、そういうことなんですね。これって口で言うのは易しくて、実行って大変なことですよね。ギスギス職場にならないよう、自戒他戒したいものだとつくづく思いました。
 9月の第一週の日曜日のことです。朝から奇妙なほど静かです。蝉の鳴き声がしないのです。おや、もう蝉の季節は終わってしまったのか、今年はやけに早いな、と思いました。すると、夕方になって早めにお風呂に入っていると、ツクツク法師の鳴き声が遠くに聞こえました。寂しい声でした。
 庭に甘い朱色の曼珠沙華が咲いています。秋を感じます。ヒマワリがまだ咲いていますが、隣の芙蓉のピンクの花の引き立て役になってしまいました。酔芙蓉はこれからです。黄色いエンゼルストランペットも咲いています。裁判所には白い花で、ちょうど逆向き、上向きの花があります。名前を聞くと、ダチュラということでした。あれ、エンゼルストランペットの別名もダチュラというんじゃなかったっけ、ふと疑問に思いました。
(2008年1月刊。720円+税)

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2008年9月 9日

タンゴ・ステップ

ヨーロッパ

著者:ヘニング・マンケル、出版社:創元社推理文庫
 上下2巻のスウェーデン産ミステリー小説です。なかなかの読みごたえがあります。私はスウェーデンがナチス・ドイツのあいだに深い関係があったことを初めて認識しました。
 フランスに行く飛行機のなかで読みふけりました。実に面白く、ぐいぐい引きずられるように読みすすめました。第二次大戦前後、スウェーデンで大勢の人がナチス思想に共鳴し、ナチスの兵士になっていったというのです。今では信じられませんが、恐らく本当のことでしょう。著者は、私と同じ、1948年に生まれです。
 1930年代、40年代、スウェーデンは実にナチス信奉者の多い国だった。彼らはドイツ軍がスウェーデンに侵入するのを待ち望み、スウェーデンがナチズムに統治されるのを何より望んでいた。
 スウェーデンの軍事産業は多大な鉄鋼を寄贈し、それによってドイツの軍事産業はヒトラーの命じる最新式の軍艦や戦車を製造することができた。
 日本からパリまでの飛行時間は実に12時間あります。その長さを忘れ去れる充実した読書タイムでした。推理小説ですから、ここで種明かしをするわけにはいきません。そこで、オビなどに書かれている文句を少しばかり紹介します。
 影におびえ続けた男。元警察官の血まみれの死体は森の入り口で発見された。男は54年間、眠れない夜と過ごしてきた。森の中の一軒家、選び抜いた靴とダークスーツを身につけ、人形をパートナーにタンゴを踊る。だが、その夜明け、ついに影が彼をとらえた・・・。
 ステファン・リンドマン37歳。警察官。舌がんの宣告を受け動揺した彼が目にしたのは、自分が新米のころ指導を受けた先輩が、無惨に殺害されたという新聞記事だった。動機は不明。犯人の手がかりもない。治療を前に休暇をとったステファンは事件の現場に向かう。
 それにしても、スウェーデンにナチス信奉者がいたというのは何十年も前の過ぎ去った昔のこと、とは言えない現実があることを、この本は鋭くえぐり出しています。ネオ・ナチズムはヨーロッパのあちこちにひそんでいて、暗躍しているのです。それは、ちょうど、日本で大東亜戦争肯定論を唱える右翼のようなものです。どちらも歴史から学ぼうとはしません。
 アヴィニヨンの駅前からタクシーに乗ってシャトー・ヌフ・デュパープ村へ行ってきました。前にボルドーのサンテミリオンにも行ったことがありますが、とても似た雰囲気の小さな村です。この村は高級ワインを産出するので名高いところです。村の周囲にブドウ畑が広がっています。はるか遠くには頂に白いものも見える高い山々が連らなっています。村の中心部の高台には今や城郭の一部しか残っていませんが、古いお城がありました。またまた美味しいワインを飲みたくなったものです。
(2008年5月刊。980円+税)

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2008年9月 8日

フランスものしり紀行

世界(フランス)

著者:紅山雪夫、出版社:新潮文庫
 私は大学生のころからフランス語を勉強していますし、フランスにも5回ほど行きましたので、それなりにフランスのことは知っているつもりでしたが、なんのなんの、まだまだ知らないことばかりだということを思い知らされる本でした。この夏にフランスへ行ってきましたが、フランスへの飛行機のなかで一生懸命にこの本を読んで予習しました。
 パリはフランス語ではパリですが、英語ではパリスと、語尾のスまで発音しますよね。パリの語源はパリシイ族に由来する。
 3年前にはロワールの城めぐりとモン・サン・ミッシェルそしてボルドー、サンテミリオンを歴訪しました。この本にもロワール川流域にある美しい城がいくつか紹介されています。アゼ・ル・リドー城、シノン城、ブロワ城、シャンボール城、シュノンソー城、アンボワーズ城です。その優美さ、壮大さは思わず息を呑み、足を停めてしまいます。素人カメラマンでも美しく撮ることができます。
 そして、この夏は南フランスをまわってきましたので、そちらを紹介します。
 アルルはゴッホが住み、こよなく愛した町です。駅から歩いて10分もかからないところに旧市街入り口の古い門があります。
 ゴッホは、アルルは明るい色彩効果のため、日本のように美しく見える、と言ったそうです。もちろんゴッホが日本に来たことはなく、日本の浮世絵を見ていたことからの連想です。中心部にローマ時代の円形闘技場がほとんど完全な形で残っています。近づくと本当に圧倒されてしまいます。よくもこんな巨大な石造りの建物をつくったものです。この本によると、ローマ帝国が滅亡したあと集合住宅としてつかわれていたのが保存に幸いしたのだそうです。なーるほど、ですね。
 アルルの郊外に有名なゴッホの「跳ね橋」があります。私は20年近く前にアルルの町から歩いていこうとして、見つからずに断念したことがありました。今回、タクシーに乗って「跳ね橋」に行ってみて、歩いていけるような距離ではないことを実感しました。ガイドブックに女性の一人歩きは厳禁と書いてありましたが、私は、女性だけでなく、男性もやめたほうがいいと思いました。なにしろ遠すぎるし、迷い子になるのは必至だと思ったからです。ゴッホの「跳ね橋」は再現されていますが、晴れていたら絵になるロケーションにありました。残念なことに、私の行ったときには曇り空でしたので、絵にはなりませんでした。
 アルルから、タクシーでレ・ボーに行きました。ここは前にも一度行ったことがあるのですが、奇岩城としか言いようのない断崖絶壁の町です。
 松本清張がレ・ボーを題材に『詩城の旅びと』(NHK出版、1989年)という本を書いています。清張は次のように描きました。
 レ・ボーは、アルピーマ山塊の一部が平野に向かって突出した細長い岩山の上にあり、まわりを断崖絶壁で囲まれていて、まさに難攻不落としか言いようがない天然の要塞である。岩山の上に城塞の廃墟が延々と連なっている。
 私も一番高いところまでのぼりましたが、とても風が強くて吹き飛ばされそうなほどでした。写真でお見せできないのが残念です。
(2008年5月刊。590円+税)

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2008年9月 7日

ケータイの裏側

社会

著者:吉田里織・石川一喜、出版社:コモンズ
 今や電車の1車両にいる乗客のうち、ケータイを手に持って操作している人の割合は3分の1に近い。
 2008年1月のケータイは1億550万台。固定電話の契約数は6196万台である。
 もっとも軽いケータイは80グラムしかない。卵1個半の重さだ。
 ケータイは、メールの回数が通話より圧倒的に多い。日本のケータイはメール中心だ。そして、女子のほうが男子よりメールの受発信数が多い。
 アンテナを外に引き出す必要がないようにチップ誘導体アンテナを開発したのは村田製作所。
 自ら発光する有機ELは背後から照らす必要がないので、薄型化を容易にした。
 リチウムイオン電池も軽量化に寄与した立役者のひとつ。マナーモード用のバイブレーション機能も、直径3.5ミリの小型モーターの内側にある田中貴金属の独自の技術によるブラシが不可欠である。
 世界のケータイの主流はメールの送受信ができれば十分というGSM方式だが、日本ではその上の第三世代である。日本のケータイは世界市場に占めるシェアは小さいのですが、これからどうなるのでしょうか。世界の人々が日本型の多機能型ケータイを目ざすのかどうか、予断を許しません。私は、けっこう世界に受け入れられると思いますが・・・。
 ケータイは宝の山。電池を抜いたケータイには1トンあたり200〜300グラムの金が含まれている。世界の主要金鉱山の平均含有量は1トンあたり5グラム。世界最高品質の金鉱である鹿児島の菱刈鉱山は1トンあたり50グラム。な、なんという含有率の高さでしょうか。
 NTTドコモグループは、2006年度にケータイ再資源として、金124キロ、銀が352キロ、銅に至っては2万9025キロも取り出した。
 ケータイは複数のレアメタルを必要とするハイテク製品である。ケータイを10年以上つかい続けていると、脳腫瘍になる可能性が増すことが明らかになった。
 頭部に発信源を近づけて使い続けるので、強い電磁波が頭を直撃する。
 動物実験では、脳の機能が影響を受ける可能性も指摘されている。
 いやあ、ケータイ依存症が日本の青少年にはびこっているわけですが、このまま放置しておいていいのか、大いに心配になりました。
 ちなみに、私のケータイは発信専用です。一日中、スイッチはオフにしてカバンの中にしまっています。1日に1回か2回、発信につかえばいいほうです。公衆電話がないので、持ち歩いているだけなのです。それでも、最近、ケータイ・ホームページを開設しました。パソコンに長けた事務員が2時間たらずで、あっという間に起ち上げてくれました。しかも、運営・維持費がいりません。毎週、法律相談コーナーを更新しているところです。
(2008年4月刊。1700円+税)

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2008年9月 6日

人とロボットの秘密

社会

 私も手塚治虫の「鉄腕アトム」は大好きでした。そして、「鉄人28号」や「エイトマン」は小学生時代のころよくテレビでみていました。そんな状況にありますから、私たち日本人にとって、ロボットはかなり身近な存在だと思います。
 1970年に1万9000台だったロボットの製造台数は、1980年には10倍。 80年代後半には、世界のロボット設置台数のうち半数が日本製のロボットとなり、最盛期には世界シェアの7割を占めた。21世紀に入り、2001年でも世界のロボット設置台数75万台のうち、半分の38万9000台が日本製である。
 人型機械、ヒューマノイドの分野に限ると、欧米と比べて大きくわが日本の研究が進んでいる。ヒューマノイド研究者の数が欧米と桁違いに日本が多い。だから、成果も大きい。ヨーロッパでは、まだ若い研究者でも、人型ロボットの研究は神への冒涜だなんて言う人がいる。
 日本人は、知能ロボットの研究・開発分野では欧米とは異なる伝統をうち立て、その成果は日々、新しい人間観を提起している。
 ロボット工学は、金属を素材とする「クール」な学問ではない。人間の血肉を「どうやれば、それを自分たちで再現できるか」という究極のレベルまで探求しようとするライブな分野である。
 知能ロボット研究では、未知の事態に対応する能力が知能だという定義が広く受け入れられている。そのためには直感が必要だ。
 知能とは、人間の主観をはなれて客観的に存在するもの、実体をもつものではない。つまり、知能とは、コミュニケーションという現象の際に観察される主観的な現象である。
 人間は人間を理解するために脳を、五感を進化させてきた。だから、人間は人間を理解するための脳を持っているがゆえに、みな究極的に人間とは何かを知りたいという欲望をもっている。
 日本人がロボットに親しみを感じる原因の一つに、江戸時代のからくり人形の精巧さに感嘆してきたという事実も指摘されています。JR久留米駅頭には田中久重のからくり人形を模した大きな時計が据えられています。時間になると、その人形が中から飛び出してくるのです。すごいです。文字を書く人形まであったというのですからね。
 でも、結局は、ロボットは人間にすべて置き換わることはありえません。なぜなら、人間はそんなに簡単な存在ではないからです。だってそうでしょ。自分で自分のことがよく分からないし、自分の身体ひとつ容易に操作できないじゃないですか・・・。
(2008年7月刊。1400円+税)

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2008年9月30日

ルポ・正社員の若者たち

社会

著者:小林 美希、 発行:岩波書店

 いま、私の事務所で働いている最若手の事務員は、関東の有名大学の出身者です。彼女の話を聞いて驚きました。
 大学を卒業して3年たった今、関東圏で就職した10人の友達のうち7人がストレス性うつ病などで休職・退職に追い込まれ、就職できなかった10人はまだ派遣やアルバイトなどで劣悪な生活状況に置かれているというのです。
 ひえーっ、すごいですね。若者をこんな悲惨な状況に追いやった者の責任を厳しく追及する必要があると思いますし、一刻も早く改善する必要があると思います。
 私自身は、一度も就職したことなく弁護士になりましたが、私の同世代は、モーレツ社員とか会社人間になったとかはいわれましたが、こんなに高比率でうつ病になるなんて、(少なくとも私には)考えられないところです。この本は、今の若者が置かれている状況を生々しくルポしています。一読の価値があります。
 非正社員や無業者の増加など、就職氷河期世代の働き方の変化によって生じる潜在的な生活保護受給者は77万4000人と試算されている。それに要する費用は18兆円近くから19兆円超とみられる。
 この世代の雇用が不安定で低賃金であることは、結婚や出産など、個人の行き方に影響を及ぼしている。長時間労働によるうつ病や過労死は若年層にも出てきている。これでは、なんのために生まれ、働き、生きているのか分からない。
 2005年度の派遣労働者は255万人(12.4%増)、派遣先は66万件(32.7%増)、年間売上高は4兆351億円(前年度比41%増)。2006年度は、派遣労働者は321万人(26.1%増)、売上高は5兆4189億円(34.4%増)。
 入社して早期にやめる人の大部分は、企業社会の中でへとへとになり、閉塞感を抱えた人たちである。たとえば、SE(システムエンジニア)の世界では、成果主義が行きすぎ、先輩社員は自分の成果を守るために、後輩に仕事を教える余裕がなくなり、目先の仕事、目先の成績にとらわれ、長期的な技術の向上や伝承という意識が希薄化している。
 メガバンクの大量採用は、人事戦略なしの横ならび。雇った一般職の全員が定年まで残ったら人件費がかかりすぎるため、ある程度の年数でやめることを銀行は想定している。
 国は、なにより若者が安定した雇用につける制度を作るべきではないか。
 私も、まったく同感です。そもそも派遣労働者を認めること自体が間違っています。せいぜい、正社員とパートにすべきです。
 この本を読んで、歯科医までがあまっているため、低賃金・不安定雇用で苦労しているというのを知って驚きました。まさか、という思いです。
 日本を捨てて中国へ飛び出していく日本人の若者もいるようです。それはそれでいいのですが、中国の人々からしたら複雑な気持ちになることでしょうね。なにしろ、同じ仕事をしていても給料に大きな差があるというわけですから。
 正社員になったら長時間労働で死ぬまで働かされる。派遣社員は差別され、面白くもない雑務をずっとやらされて仕事に意義を見出せない。なんと両極端なことでしょう。
 実は、私の娘も、今、そこで悩んでいます。最近まで派遣をしていましたが、責任のない仕事は面白くないといって、いったん辞めた元の職場に戻ったのです。そこは、過労のために病気になりそうなほど働かされるところです。いやあ、その中間がないものかと、親としては考えさせられます。人を軽々しく将棋の駒のように使い捨てにできる存在に変えたのは、財界の要求に政府が応じたからです。なんでも効率本位のアメリカ型労務管理の悪い面があまりにも出すぎています。
 もっと楽しく、意義のある仕事をみんなができるようにしたいものですよね。すごく時宜にかなった本です。 
(2008年6月刊。1700円+税)

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2008年9月29日

サザエさんの東京物語

社会

著者:長谷川洋子、 発行:朝日出版社

 サザエさんの作者、長谷川町子の実妹による町子の実像を紹介する楽しい本です。
 ワンマン母さんと串だんご三姉妹の昭和物語。
オビのこの文句がぴったりくる内容になっています。サザエさん、マスオさん、カツオにワカメ。戦後日本の世相をよくよく描いていたと思います。ほんわかとした絵が読む人の心を大いに惹きつけました。
 長谷川町子は、家の中では「お山の大将」で傍若無人。声も主張も人一番大きかった。我が家の中だけが彼女にとって本当に居心地のいい世界だったから、喜怒哀楽はすべて家庭の中で発散していた。三つ子の魂百まで、というか、かつての悪童は閉鎖的な家庭の中で、そのまま大人になってしまった。
家庭漫画って、清く正しくつつましく、を要求されるでしょう。だけど、それって私の本性じゃないのよね。だから「いじわるばあさん」のほうが気楽に描けるのよ。私の地のままでいいんだもの。
このように、町子は「いじわるばあさん」を自認していた。その割には、反省の色が少しもなかった。町子は一生独身だった。婚約したのに、それを土壇場で断ったのだ。
たくさんの愛読者に答えるためには、昨日より今日のほうが、今日より明日の方が作品はより面白くなくてはならないと、半ば強迫観念に似た思いが町子を苦しめていた。始終、胃が痛いと言って枕で胃の辺りを押さえていたし、病院の薬もあまり効き目がなかった。
 家族は町子の健康を心配して、「こんなしんどい仕事はいいかげんにやめたら」と頼んでいた。それに対して、町子は「でもね、いい作品ができたときの嬉しさや満足感は、あなたたちの誰にも分からないわ」と言って取り合わなかった。
 町子は、人に会うのが苦手で、パーティーや会合にほとんど出席したことがなかったので、友人や知人が極端に少なかった。ユーモアたっぷりの磯野家の雰囲気とは少し違うようですね。ひょっとして対人恐怖症だったのでしょうか…。
 長谷川町子のワンマンぶりがユーモアたっぷりに紹介されています。そして、串だんご三姉妹で末っ子として可愛がられた著者が、町子や姉と分離・独立していくときの心境には、なるほど、人間にとって独立と自由ほど尊いものはないんだなと、つくづく思わされました。なにしろ、「30億円」もの遺産を相続放棄したため、まさかと思った税務署が隠し遺産があるのでは、と疑って調査に来たほどだというのですから…。 
 パリにはタクシーがたくさん走っています。流しのタクシーもいると思います。エクサンプロヴァンスでは駅前にタクシー(車)はあるのに、運転手がいませんでした。タクシーは電話で予約するものなのです。でも、こちらはテレカルト(テレホンカード)を持っていません。仕方なく、ホテルまで20分以上も重たいスーツケースを引っ張って歩きました。しかも、果たしてこの道でいいのか不安のままに…。
 ニースではタクシーがなかなか見つからず、やっと見つけたタクシーには日本人のカモと思われたらしく、65ユーロもぼったくられてしまいました。というのも、バスセンターの周囲にはタクシーが一台もいなかったので、帰りの足をむやみに心配してしまったためでした。
(2008年4月刊。1200円+税)

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2008年9月28日

アシナガがゆく

世界(フランス)

著者:辻本 公一・斉藤 護、 発行:徒歩々庵編集工房
 いやあ、驚き、呆れ、恐れ入りました。こんなことを思い立ち、そして、それを実行する人が、この世の中にはいるんですね。信じられません。だって、パリからスペインまでの1800メートルを2ヶ月かけてテクテク歩いていったというのですよ。それも、いい年齢(とし)した弁護士のおっちゃん(67歳)が…。私の方はちょうど膝に神経痛が出て、歩くのも不自由していたときに読みましたから、余計に驚嘆してしまいました。
大阪には、狂歩楽々宗なる得体の知れないグループがあるとのことです。しかも、そのメンバーたるや、今の大阪弁護士会長、元の日弁連副会長まで加わっているというのです。なんだか西欧社会を背後で操っているというフリーメーソンみたいではありませんか…。(失礼しました)
 この本はまず、その狂歩楽々宗の有力信徒の一人である佐伯照道弁護士より贈呈されました。途中まで読んでいたところ、なんと恐れ多くも狂歩楽々宗の教祖様である辻本公一弁護士からも贈呈本が届いたのです。私のかねてより敬愛する石川元也弁護士の紹介で送るとの添え書きがついています。これは大変なことになった。そう思って後半を読み進めていったという次第です。
 いったい、2ヶ月間も、フランスをパリからスペインにかけて歩きとおすなんていう発想はどこから出てきたのでしょうか…?あとがきによると、大阪でも通勤するのに往復を歩いていたということです。1年間に360キロを歩いたと書いてありますので、毎日1キロ歩いたというわけですね。すごいですよね、これって…。それで、音に聞くコンポステル巡礼路へ行ってみよう、そして、美しいというフランスの田舎も見てみたいと思うようになった、というのです。なるほど、フランスの田舎町は美しいです。でも、でもですよ。一人でテクテク歩くのです。それも重たいリュックサックを背負って、なんですよ。私なんか、考えただけでも足が引きつってしまいそうです。
 パリから歩いていく途中で、ロワール川の古城めぐりのお城も登場します。シャンボール城やブロア城などです。私も3年前の夏に行ってきました。タクシーで一日かけて回りました。観光バスよりはゆっくりできたと思いますが、それを歩いて回ったとは…。
 ブロアもいいし、アンボワーズもいいところです。レオナルド・ダヴィンチが生活していたお城でもあります。この本には、歩いた風景が写真で紹介されています。うんうん、こんなのどかな情景って、フランスのあちこちにあるよね、そこをゆっくりのんびり歩くって、人生最高の贅沢だよね。私もそう思います。だけど、でも、ですね…。
 アシナガ氏は、ホテルに泊まって朝食をとって、だいたい午前9時ごろに歩き始めたようです。たまには3日間ほど同じホテルに泊まって、休養もしたようです。それはそうですよね。そして、一日9時間も歩いたことがあるそうです。一日に30キロとか40キロも歩くのです。しかも、雨が降っていても歩いたというのです。すごーい。
 ホテルはケータイで前日のうちに予約していたようですが、たまにはぶっつけ本番であたったりもしています。道に迷ってしまって夜になってもホテルが見つからず、道を尋ねたところ、親切な母娘に車でホテルまで送り届けてもらったこともあるといいます。やはり、見知らぬ国での一人旅は大変な冒険です。
 ところが、フランスではひなびた村にもとびきり美味しい料理を出してくれるレストランとホテルがあるのです。そこが、フランスの旅の良いところです。
 壁には風雅な飾り物。趣味のいい調度品、ゆったりとしたテーブルの配置、テーブルの上には古風なローソクスタンド。実に落ち着いたくつろぎの空間を演出している。若い夫婦二人で切り盛りしているホテル・レストラン。夫は厨房で料理を、妻はテーブルを回ってメニューを配り、注文を聞き、料理やワインを運び、天性の美しい笑顔で、お客と和やかに言葉を交わす。その挙措は精錬され、優雅なことこの上ない。
 アペリティフはカシスのキール。本日のスープはバジリコ入りの熱々スープ。メインデッシュは盛り付けも鮮やかな鴨のステーキ。味も申し分なし。ワインにもハズレたころは一度もない。
 いやあ、ホントなんですよね。さすが、うまし国、フランスだけのことはあります。どんな田舎に行っても、美味しい料理を期待できる。それがフランスです。
 田園地帯を歩いていると、牛が物珍しそうに近寄ってくる。眠たそうな目でじっと見つめ、トコトコと寄ってきて、「おっちゃん、どこ行くん?」と聞いてくるのもいるほど…。
 やはり、狂信的な信者というしかありません。いやはや、見事な道中記です。写真もまた素晴らしいですね。 感心、感嘆、感銘を受けました。
(2008年8月刊。?円)

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