弁護士会の読書

※本欄の記述はあくまで会員の個人的意見です。

2020年10月21日

撰銭とビタ一文の戦国史

日本史(戦国)


(霧山昴)
著者 高木 久史 、 出版 平凡社

日本史に登場する銭(ぜに)の素材は、金・銀・銅・鉛と、さまざまなものがあった。
朝廷は鉛でできた銭を発行し、中世の民間は純銅の銭をつくり、秀吉政権は金または銀で銭をつくり、江戸幕府は鉄または黄銅(銅と亜鉛の合金)でも銭をつくった。
15世紀の日本では文字やデザインのない無文銭がつくられた。これは、錫が少なく、銅の多い銭は文字がはっきり出にくいことによる。無文銭をつくっていた地域の代表が堺。
足利義満は、20~30万貫文の銭を輸入した。義満が明との勘合貿易に積極的だったのは、内裏(だいり)や義満の邸宅である北山殿(今の金閣)を建設するための財源を調達するためだった。
室町時代を全体としてみると、輸入した銭の量は貨幣に対する人々の需要をみたすほどのものではなかった。
銭が不足したことへの人々の対応策の一つが省陌(せいはく)。これは100枚未満しかない銭を100文の価値があるとみなすこと。このために銭をひもで通してまとめたものを緡銭(さしぜに)という。ただし、これは、中国やベトナムにもあって、日本独自の慣行ではない。
撰銭(えりぜに)とは、人々が特定の銭を受けとることを拒んだり、排除してしまうこと。たとえば、明銭のなかの永楽通宝は品質もそこそこ良いのに人々から嫌われた。
人々は旧銭を好み、新銭は「悪」とみなした。つまり、使い古された貨幣のほうが安心して使えるので、好まれた。
九州の人々は明銭のうち、洪武通宝を好んだが、本州の人々はこれを嫌った。
16世紀には銭そのものを売買する市場が成立し、これを悪銭売買と呼んだ。
銀は、15世紀以前の日本では対馬国を除いてはとれず、中国や朝鮮半島からの輸入に頼った。16世紀に入ると、石見(いわみ)銀山など全国各地に銀山が開発された。信長政権の時代には、銭が不足気味だった。
「ビタ一文も負けない」というときの「ビタ」は、銭のカテゴリーの一つ。やがて、人々はビタを基準銭に使うようになった。「ビタ一文」と言うとき、貨幣の額面が小さいうえ、少額なことを人々がややさげすむ意味をふくんでいる。
秀吉は関東の北条一門を屈服させると、永楽通宝1をビタ3、金1両をビタ2000文とする比価を定めた。秀吉政権は高額貨幣の発行を優先させ、銭政策に消極的だった。秀吉は全国の金山を直轄すると宣言し、国内の銀山で採れた銀で銀貨をつくって大陸出兵の軍費にあてたり、そのことで再びもめた。
碓氷(うすい)峠あたりを境として、西側はビタを、東側は永楽通宝を基準銭とする地域に分かれていた。
寛永通宝はビタのなれの果てだった。
日本中の銭のさまざまなつかい方の一端を知ることができる本です。
(2018年12月刊。1800円+税)

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