弁護士会の読書

※本欄の記述はあくまで会員の個人的意見です。

2020年6月14日

神話と天皇

日本史(古代)


(霧山昴)
著者 大山 誠 、 出版 平凡社

著者は、「聖徳太子」は虚構の存在であると20年以上も前から主張していて、今日では、すでに常識となっているとしています。本当でしょうか...。
そして、藤原不比等(ふひと)をきわめて重視しています。不比等は『日本書紀』編纂の中心人物です。
壬申(じんしん)の乱のあと天武天皇が専制権力を確立し、中央集権的な改革を断行したというのが普通の教科書的な理解だが、本当はまったく違い、天武天皇には政治力はなく、その政権はまともに機能していなかった。すべては藤原不比等が政治をとりしきっていた。これが著者の考えです。
出雲大社も伊勢神宮も、祭られた神は「よそ者」だった。なぜ、「よそ者」だったのか...。この謎を著者は解明していきます。
アマテラスとスサノヲは、もともと伊勢や出雲で祭られていた神ではない。記紀の神話の物語のなかで生まれた、いわば架空の神だ。また、大国主の呼称をもって出雲大社に祭られたオホナムチも本来は大和の葛城(かつらぎ)の神だった。ということは、伊勢と出雲の地からみたとき、これらの神々は、みな「よそ者」だったことになる。この「よそ者」の神を国家の都合で、上から祭ったのが伊勢の内宮と出雲大社だった。なので、厳密には神社ではなく、政治的モニュメントというべきものだった。
奈良時代の天皇制には三つの特徴がある。その一は、国家意思決定の場から排除されていること。国政の中心にあるのは、日本では天皇ではなく、太政官だった。天皇には、国有の人的、軍事的、経済的な、つまり権力的な基盤がなかった。天皇は至高の存在でありながら、国家意思の決定システムから明確かつ巧妙に排除されていた。天皇は常に現実の政治の場から疎外されていた。
第二は、天皇の存在的な権限を天皇の外戚となった藤原氏が利用して権力を掌握した。つまり、天皇制は、天皇のためのものではなく、藤原氏のために存在した。代々、藤原氏の娘に子どもを産ませ、その子が次の天皇になる。権力の実体として君臨しているのは藤原氏である。ということは、天皇は藤原氏の婿にすぎない。
第三に、記紀神話による天皇の神格化。天皇は高天原に光り輝く太陽、つまりアマテラスの血を引く子孫であり、藤原氏の娘が代々、その神の子を産みつづけるということになれば、藤原氏自身も神格化されることになる。
結局、このようにみてくると、天皇制の目的は、藤原氏の覇権だった。すなわち、天皇制は、藤原不比等によってつくられたのだ。
著者の主張は、このようにきわめて明快です。では、いったいなぜ、どうやって藤原不比等は、そんな力を身につけたのでしょうか...。
神話は、権力をもたない天皇にとって唯一の存在の根拠だった。
藤原不比等の父・中臣鎌足という人物の実像はほとんど不明。不比等が12歳のとき鎌足は亡くなっている。
不比等の本名は「史」。これは摂津に本拠地を有する百済系渡来人である田辺史大隅によって養われたことからきている。
政治権力をもたない天皇が権力秩序の中心にいる。こんな不思議な政治システムが天皇制なのだ。
『隋書』倭国伝や飛鳥の考古学の遺跡から判断して、推古・厩戸王(聖徳太子)が天皇皇子だったというのは事実ではなく、7世紀初頭の本当の大王は蘇我馬子だったというのが著者の考え。そして馬子の王位は、蝦夷(えみし)、入鹿(いるか)へと継承された。ところはが、乙巳(いつし)の変によって、曽我王家から息長(おきなが)王家へ王朝は交代した。これは、かなり大胆な王朝交代説です。
大和王権は、5世紀までは三輪山山麓の纏向から始まった王家の延長上にあった。
6世紀初頭に近江出身の継体新王朝が成立する。これは大和の葛城出身の蘇我氏の協力によるものだった。6世紀後半、王権は曽我氏に移り、645年の乙巳の変によってふたたび近江出身の息長王家が成立した。
いずれにせよ、天皇には実権はなく、太政官が代行するシステムだった。そして、天皇の外戚となることによって太政官を掌握したのが藤原不比等だった。
長屋王と藤原不比等とのあいだには確執があった。そのため、皇位争いは速走した。
長屋王の変が起きたのは729年のこと。首謀者は光明皇后だった。
天皇と貴族との関係がはっきりと見えてくる明快な本でした。
(2017年10月刊。1900円+税)

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