弁護士会の読書

※本欄の記述はあくまで会員の個人的意見です。

2020年6月 7日

マリー・アントワネットの衣裳部屋

フランス


(霧山昴)
著者 内村 理奈 、 出版 平凡社

1769年、オーストリアのパプスブルグ家のマリー・アントワネットとフランスのブルボン家の皇太子ルイの婚約が成立した。いわゆる政略結婚であり、このときアントワネットは、まだ13歳の少女だった。
この当時、結婚前に会うことはなく、相手の肖像画が手渡され、それだけを頼りに、結婚のその日を迎えるのが通例だった。すなわち、肖像画を贈りあうことは、結婚を進めていくための大切な第一歩だった。
結婚式の費用は200万リーヴル。およそ200億円。衣裳のために10万リーヴル、10億円が充てられた。
このころ、女性は人生で2度、白い布類を大量に用意しなければならなかった。結婚と出産のとき。当時、真っ白な布は大変高価で貴重なものだった。そして、レースも驚くほど高価なものだった。
アントワネットは、フランス国境に入ったとたん、オーストリアから着てきたすべての衣裳を脱がされて、フランス流の宮廷衣裳、ローブ・ア・ラ・フランセーズに着替えさせられ、髪型もフランス王室髪結い師によってフランス流に整えられ、靴もフランスの華奢な靴に履き替えさせられた。うひゃあ、す、すごいことですね...。
1770年5月30日、結婚祝賀の最終日、婚礼祝賀花火のあと、広場は大混乱状態になり、大勢の死傷者を出す大惨事が出来(しゅったい)した。死者は男性45人、女性87人の計132人にのぼった。広場でパニック状態となり、将棋倒しが起きたのでしょうね...。
朝、1日の始まりは、恭しいシュミーズの儀式から始まった。アントワネットにシュミーズを手渡すのは、その場に居合わせた最も高位の貴婦人がつとめる名誉ある行為だった。他人を寝室に招じ入れながら、着替えを披露することは、特権階級の、まさしく特権だった。
18世紀も大貴族の女性にとって、自分より格下の者たちは、羞恥心を引きおこす必要などまったく感じることのない相手だった。つまり、大貴族の女性からすれば、身分が下の人物は畑のかぼちゃやキャベツと同じようなものだった。
化粧着でゆったりと過ごしながら、衣裳係から差し出された衣裳見本帳を見て、その日の衣裳を決める。これが午前の儀式のクライマックスだった。公式の衣裳、非公式の衣服、儀式用の衣服の3種類があった。
衣裳係と女官は、アントワネットの衣裳をすべて管理していた。そして、彼らは、アントワネットの衣裳を売買して利益を得ていた。
マリー・アントワネットの実像の一端をちらっとだけ垣間みた気のする本でした。
(2019年10月刊。3200円+税)

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