弁護士会の読書

※本欄の記述はあくまで会員の個人的意見です。

2020年6月 3日

内戦の日本古代史

日本史(古代)


(霧山昴)
著者  倉本 一宏 、 出版  講談社現代新書

 古代日本は対外戦争の経験がきわめて少なかった。古代に海外で実際に戦争したのは、4世紀末から5世紀にかけての対高句麗(こうくり)戦と、7世紀後半の白村江(はくそんこう)の戦の2回のみ。その後も、16世紀の豊臣秀吉の朝鮮半島侵攻だけ。そして、内戦のほうも少なく、かつ、その規模は小さかった。
壬申(じんしん)の乱は、『日本書紀』のいうほど大規模であったとは考えられない。保元の乱で平清盛が動かした兵は300人ほど。川中島の戦いも、実際の戦闘があったのは2回だけ。関ヶ原の戦いは、数時間で決着がついている。日本は昔から、なんと平和な国だったろう...。
日本では、王権そのものに対して戦闘をしかけた例はほとんどない。
邪馬台国とは、中国の三国のうちの魏(ぎ)王朝と外交関係をもった、およそ「30国」から成る連合体の盟主として中国の資料に残されている一つの「国」にすぎない。邪馬台国が日本列島における最有力の、ましてや唯一の権力であったというのではない。
著者は、邪馬台国を筑後平野の南部に存在していたと考えています。オッシ、オッシ、これはいい。邪馬台国は八女か瀬高にあったといいうことなのでしょうね。すばらしい!
邪馬台(やまと)国連合の時代以来、北部九州の勢力と倭(わ)王権とは対峙(たいじ)しつづけていた。九州勢力の自立性は、その後も、在地において保持されていた。
八女を基盤とする磐井(いわい)の勢力範囲は九州北部のすべてに及んでいた。筑後川や有明海の支配とともに、東は周防灘(すおうなだ)や豊予海峡の瀬戸内海への、北は福岡平野から玄界灘に達する陸上交通の要衝(ようしょう)をおさえる、まさしく筑紫の大首長だった。対抗勢力を殲滅せずに温存するという、あいまいな決着方式が日本の歴史を見るうえでの特色だった。
東北地方で「38年戦争」が始まったのは宝亀5年(774年)のこと。蝦夷(えみし)が奈良・京都の都にたてついた。桓武天皇のとき、794年(延歴13年)に平安京となったが、延歴21年(802年)4月に蝦夷の族長である阿弖流為(あてるい)と母礼(もれ)が降伏した。田村麻呂はこれを受け入れ、京都へ連行し、二人は騙しうちのようにして公開処刑された。
弘仁2年(811年)、最後の征夷がおこなわれた。結局、双方とも決定的な勝利を得られないまま、38年にわたる「征夷」を終結した。
古代史の内戦の通史みたいな本で、改めて勉強になりました。
(2018年12月刊。920円+税)

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