弁護士会の読書

※本欄の記述はあくまで会員の個人的意見です。

2020年2月24日

明智光秀伝

日本史(戦国)


(霧山昴)
著者 藤田 達生 、 出版  小学館

それほどの抵抗も受けずに甲斐の武田信玄を滅亡させた織田信長は、返す刀で一挙に中国・四国を攻撃し、天正10年中に天下統一を実現するつもりだった。
光秀は、戦後おこなわれるだろう大規模国替によって、自らの派閥が解体されることに耐えられず、加えて重臣の斎藤利三にほだされ、旧主の足利義昭を推戴してクーデターを強行した。
光秀は秀吉との派閥抗争に完敗して将来に希望がもてなくなったのに加えて、斎藤利三を頂点とする家中の長宗我部氏と親しく、幕府や朝廷にも親和性のある派閥からの突き上げを受けて、最終判断したと考えられる。
信長と秀吉とは、必ずしも一枚岩ではなかった。織田政権の西国政策を体現するとみられてきた秀吉の地位は意外に脆弱(ぜいじゃく)だった。四国そして毛利方との和平工作の裏面で光秀が動いていた。
信長は、朝廷の仲介によって足利義昭の「鞆(とも)幕府」と和解し、西国平定を早期に実現する意向だった。うまくいけば、天正8年中にも光秀主導で信長による天下統一が実現した可能性があった。
これによって絶体絶命のピンチに直面したのが秀吉だった。そこで秀吉は毛利氏との講和をつぶすため、なりふりかまわず戦争を仕かけ、毛利方の主戦派である吉川元春の参戦をけしかけた。これが功を奏して、秀吉は人生最大の危機を脱した。
天正8年の時点で、中国では毛利氏との講和による宇喜多氏の没落と秀吉の失脚、四国では長宗我部氏による統一が実現した可能性があった。そうすると、西国方面の司令官として光秀が君臨することになる。
これに対して、信長の一門と一体化をすすめ、自派の勝利を確信した秀吉は、信長の西国動座をできるだけ早めようとした。そのために敢行したのが、備中高松城の水攻めだった。水攻めは敵対勢力の後詰め勢力を誘き出すことに眼目があったが、秀吉は毛利氏本隊を戦場に引きずり出して、信長の親征の舞台を着々と用意した。こうして信長は四国政策を変更した。秀吉の要求を一方的に受けいれ、それまでの光秀の外交努力を全面否定することになった。
畿内支配に関与した光秀は、秀吉の派閥はもとより、信長の一門・近習たちともライバル関係にあった。光秀は一度ならず、二度も信長に裏切られた。信長は、秀吉の献策を受けて毛利氏と対決する道を選択した。四国においても長宗我部氏との戦闘へと外交方針を転換した。これは、光秀にとってすれば、理不尽以外のなにものでもなかった。
本能寺の変に至る光秀の行動の根拠が明らかにされていて、なるほどと私は思いました。
光秀を神社でまつっているところもあるのですね。これには驚きます。光秀を悪人に描くようになったのは最近のことのようです。知りませんでした。
(2019年11月刊。1300円+税)

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