弁護士会の読書

※本欄の記述はあくまで会員の個人的意見です。

2019年11月13日

原城発掘

日本史(江戸)


(霧山昴)
著者 石井 進、服部 英雄 、 出版  新人物往来社

久しぶりに原城へ行ってきました。今回は初めてのガイド付きでした。有馬キリシタン資料館でビデオを見て展示物・年表で島原の乱の経緯をざっと勉強して、いざ原城へ出発します。今では原城内へは車の乗り入れが禁止されていて、近くの観光拠点に車を停めて、そこからマイクロバスで本丸近くまで向かいます。
ガイドは地元の女性でしたので、昔は(戦後まもなくは)原城の海岸(浜辺)には古い弾丸があちこち落ちていて、子どもたちが拾っていたという昔話も聞くことができました。ついでに、イルカウォッチングも出来ると聞いて、驚きました。イルカウォッチングは天草だけだと思い込んでいました。原城と天草はまるで対岸という関係なのですね。原城の発掘は、まだまだ進行中のようです。いくたびに少しずつ整備がすすんでいます。
島原半島の口之津(くちのつ)に修道士アルメイダが上陸したのは1563年(永禄6年)。口之津は九州管区内におけるキリスト教布教の中心となった。
口之津港は天然の良港で、1567年(永禄10年)から南蛮船の入港地となった。やがて貿易港は長崎に移るが、有馬領内にはキリスト教が深く根付き、1580年(天正8年)、セミナリヨも建てられた。
島原の乱が始まったのは1637年(寛永14年)10月25日。島原城をまず襲ったが、落とせず、一揆軍は原城にたて籠もった。3万人の一揆軍は12月から翌年2月までの3ヶ月間、12万人の幕府軍と戦い抜いた。
2回の大きな戦闘があった。1回目は1月1日の総大将・板倉重昌が戦死した戦闘。2回目は、総攻撃・落城した2月29日。焼け跡が検出されることから、総攻撃の日は、本丸一帯は一面、火の海となり、激しい戦闘となったと推測される。
原城にたて籠った人々はキリシタンが多かったが、みんなキリシタンではなかった。はじめに農民一揆だった。
夜、原城から海のそよ風に乗って流れてくる信者の歌が幕府軍の陣営まで聞こえた。
幕府軍のなかにも、元キリシタンの人々がたくさんいただろう。どんな思いで、その歌を聞いたのだろうか・・・。
籠城していた2万3000人(あるいは3万7000人)が1人(絵師の山田右衛門左)を除いて、全員が殺害されたというのは本当なのか・・・。
服部英雄教授は異論を唱えています。
生き残った人々を、一人一人、尋問(査問)して、どこの誰で、なぜ参加したのかを問いただしたということがあった。また、女子や子どもには手出しをするなという軍律が当時はあったはずだ。
薩摩で一揆の首謀者たちが2ヶ月後に捕まり、大阪に送られたという記録もある。さらに、小型の船があったのではないか・・・。
私は、今回、原城跡の現地で、3万人もの骨は見つかっていないという話を聞きました。まだまだ地中に眠っているのかもしれませんが、一揆の参加者3万人近くを全員殺してはいないのではないかという気がします。
なお、オランダ船が原城の一揆軍を砲撃したという事実がありますが、これには、オランダが当時、ポルトガルと戦争をしていたことが背景にあることも知りました。オランダがプロテスタントで、ポルトガルがローマ教(カトリック)の国であるということから、宗教戦争であり、国の独立をかけた戦争でもあったのです。
広い広い原城跡の現地に立ち、ここに3万人もの人々が3ヶ月間も生活し、周囲を埋める12万人の幕府軍と戦ったのかと、感無量でした。
(2000年3月刊。2200円+税)

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