弁護士会の読書

※本欄の記述はあくまで会員の個人的意見です。

2019年10月 9日

農学と戦争

日本史(戦前)


(霧山昴)
著者 藤原 辰史・小塩 海平・足達 太郎 、 出版  岩波書店

戦争末期、満州へ東京農業大学の学生たちが派遣され、悲惨な状況をたどったことを明らかにした貴重な本です。
満州への移民は、日本政府(農村省)にとって、日本の農村の「過剰人口」を整理する絶好のチャンスだった。日本から100万戸の農家を送り出し、日本国内の農家の経営面積を広げて生活を安定させ、人口密度の少ない満州国に日本人の人口を増やし、あわせてソ連との国境を防衛する任務を有する、それが満州移民だった。
実際に満州に行ってみると、日本人だけで経営するにはあまりにも土地が広かったし、日本の農法はしっくりこなかった。日本で学者が語っていた「指導」なるものは、事実上不可能だった。
このころ東京農大にとって、借りものではない自前の農場を満州にもつのは悲願だった。
1944年5月、東京農大農業拓殖科の2,3年生を主体とする30人の学生が満州東部に到着した。「先遣隊」だった。
1945年6月、第三次隊が東京を出発して満州に向かった。このころ、日本内地は空襲にあっていたので、満州のほうがかなり安全だと考えられていた。
それにしても、1945年6月に日本から満州に行くというのは、無謀だとしか言いようがありませんよね。
満蒙開拓移民政策は、無人地帯に日本人を入植させたのではない。湿地だった湖北農場は例外的で、多くは、関東軍の武力にものをいわせてもともと現地にすんでいた農民から土地をとりあげた。
ソ連軍部が進攻してきたあと、満州各地でおこった日本人に対する襲撃や虐殺事件の背景には、こうした現地の人々への差別的待遇や感情的対立があった。
ソ連軍の進攻からのがれてきた日本人避難民のほとんどは、日本軍のもとへ行けば助かると考えていた。しかし、それは大きな間違いだった。当時の日本軍には、自国民を保護するという発想(考え)はなかった。むしろ、作戦の都合によって一般人を殺傷することさえいとわなかった。
 敗戦後、東京農大三次隊の学生・教職員100人のうち、半数以上が死亡した。死因は主として栄養失調による衰弱死と発疹チフスだった。すなわち、1945年度に満州へ渡航した学生87人のうち、53人が死亡または行方不明となった。実習参加学生の死亡率は61%に達した。
東京農大のトップは、この責任をまったくとらなかったし、自覚すらしなかった。彼らは戦時中の自らの責任を自覚することなく、戦前の認識を戦後にもちこしたまま、その後も要職をつとめていった。
東京農大の現役の教授たちが過去の悲惨な事実を掘りおこし、先輩たちを厳しく批判しています。これは、すごいことだと思います。ぜひ、今の在学生にしっかり受けとめられてほしいものです。
(2019年4月刊。2500円+税)

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