弁護士会の読書

※本欄の記述はあくまで会員の個人的意見です。

2019年10月 4日

中国戦線900日、424通の手紙

日本史(戦前)


(霧山昴)
著者 五味 民啓 、 出版  本の泉社

山梨県出身の著者が応召し、中国大陸の武漢三鎮攻略作戦に従軍していたとき、内地にいる妻や家族にあてた手紙424通のうちの半分ほどを紹介した貴重な本です。
中国大陸で従軍したのは1937年9月から翌1940年3月までで、著者は当時23歳から25歳でした。
著者は決して左翼思想の持ち主ではなかったのですが、軍部から疑われたため、思想教育として憲兵になるための教育を受けました。結果としては、それが幸いして上海では補助憲兵の仕事をしています。そのため生命が助かり、また内地への手紙もたくさん書けたようです。
戦場では仲間が次々に戦病死していきました。そして、戦場で負傷して入院生活を送ったあと、再び戦場に戻るのでした。
航空便を利用して内地と手紙を往復しているのには驚かされます。
ついに故郷に帰ってからは、村の若者を戦場へ送る兵事係をつとめます。どんなに苦しかったことでしょう。戦後は赤紙を配った家だと陰口(かげぐち)を立てられたとのこと。それでも、新生日本で推されて村長になったのでした。
村長になってから、戦前の戦場での悲惨な生活は家族にも話さなかったようです。
この大量の手紙は、著者の死後、ずいぶんたって発見されたものです。
出発前の手紙(1937年9月17日)。「必ずや天皇陛下の股肱(ここう)としての本分をまっとうしてまいります。戦友より一人でも余計敵をやっつけたいと願っています」
11月16日。「付近の土民を使って野菜などあつめて炊事します。土民は、たいていおとなしい者ですが、まだ、危険性もあります。毎日、2,3人で付近の部落の偵察を行い、怪しいものは銃殺や刺殺に処しています。土民は油断なりません。戦地に来て思うことは生命の尊さです。金をのこすとか名をのこすとかは第二の問題です。この世に生きているということが、どんなにありがたいことがわかりません」
10月11日。「中隊員は、わずか50人。残る140人は、戦死あるいは負傷、病気で倒れた。大隊の兵員は4分の1となった」
12月10日。「支那の大きな地から比べると、占領したのはわずかな場所。大敵の重要地を占領したにすぎない。現在、生命があるということが、一番の手柄であり、ありがたいこと。
新聞に『一番乗り』とか『決死隊』とあるのは、たいてい新聞記者のついて来る、勝味のある場所。新聞で伝えるのは、ほんの一部分であると思えば間違いない。私も決死隊に選ばれて三たび死線をこえた。みな戦死したなか、ただひとり生還したこともあった」
7月26日。「9月に一緒に出征した者で、病気や負傷で入院やら内地に帰るやらして、今は中隊の半数もいません」
9月15日。「200メートルの田圃を山の麓まで隊長にしたがって無我夢中で突進しているとき、もう少しで麓にたどりつくと思った瞬間、敵のチェッコ機関銃がバリバリ頭上にそそぎはじめ、『いけない』と思った瞬間、たちまち左足がヂーンといった感じで、そこから6尺ほどの崖下に落ちてしまい、左足がきかなくなった。そこへ戦友の青木衛生伍長がかけて来てホータイしてくれた。戦友は貫通だと喜んでくれた。弾丸が身体の中に入ったままだと治りにくく、ときには生命の危険すらあるからだ」
12月3日。「野菜がないので、兵隊は、たいてい脚気(かっけ)になっている」
1月21日。「慰安所と呼ぶ、一種内地の遊郭の少し程度の悪いくらいのものが開設された。戦友などは休日にワンサと出かけて一瞬の快楽に浮かれてくる。この女どもは、たいてい朝鮮人だ」
戦前の日本人青年のおかれていた厳しい軍隊生活のナマの姿の一端を知ることのできる貴重な本です。よくぞ公開していただきました。手紙の原本は山梨平和ミュージアムでみることができるとのことです。
(2019年5月刊。1800円+税)

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