弁護士会の読書

※本欄の記述はあくまで会員の個人的意見です。

2019年9月27日

承久の乱

日本史(鎌倉時代)


(霧山昴)
著者 坂井 孝一 、 出版  中公新書

承久の乱は、一般には後鳥羽上皇が鎌倉幕府を倒す目的で起こした兵乱とされています。しかし、この本によると、最近では、後鳥羽上皇は執権北条義時の追討を目指しただけで、倒幕ではなかったとされているとのこと。知りませんでした。
そして、後鳥羽上皇についての、時代の流れが読めない傲慢で情けない人物という人物は誤解であって、今では「新古今和歌集」を主導して編纂した優れた歌人であり、諸芸能や学問にも秀でた有能な帝王だったとされています。
同じことは、暗殺された三代将軍の源実朝(さねとも)にもあてはまる。実朝は「政治的には無力な将軍」のイメージが強いが、実は将軍として十分な権威と権力を保ち、幕政にも積極的に関与していた将軍だった。さらに、後鳥羽上皇の朝廷と源実朝の幕府は、対立どころか親密な協調関係を築いていた。実朝が暗殺されたことは、鎌倉幕府だけでなく、朝廷に衝撃を与え、乱の勃発に重大な影響を及ぼした。
このような序文を読んだら、いやおうにも本文を読みたくなるではありませんか・・・。
承元3年(1209年)、鎌倉幕府では18歳になった三代将軍実朝が将軍親裁を開始した。実朝は、主君としての穀然たる姿勢と気概をもち、統治者として次々に政策を打ち出して成果をあげていった。
実朝は、地道な努力を積み重ねて擁立された将軍から、御家人たちの上に君臨する将軍へと自立し、その権威と権力で御家人たちを従えていた。
将軍実朝のもとで、和田合戦が始まり、北条義時が和田義盛の一族を滅ぼした。この和田合戦のあと、将軍と執権とが直接対峙することになった。
北条政子、義時そして大江広元らの幕府首脳部にとっても、実朝暗殺による突然の将軍空位は想定外の危機だった。
実朝は、後鳥羽上皇の朝廷から支援を受け、頼朝をはるかに超える右大臣・左近衛大将という、武家ではとうてい考えられない高い地位に昇った大きな存在だった。
後鳥羽上皇の院宣は、問題が幕府の存続ではなく、北条義時の排除一点にしぼられているうえ、最大の関心事である恩賞に言及していて、御家人に受け入れやすい内容になっていた。後鳥羽上皇が目指したのは、北条義時を排除して鎌倉幕府をコントロール下に置くことであって、倒幕でも武士の否定でもなかった。
北条政子は、金倉幕府創設者の未亡人にして、二代、三代将軍の生母、従二位という高い位階をもち、幼き将軍予定者を後見する尼将軍として、聞く者の魂を揺さぶる名演説を行った。そして、そこには北条義時ひとりに対する追討を、三代にわたる将軍の遺産である「鎌倉」すなわち幕府そのものに対する攻撃にすり替える巧妙さがあった。幕府存亡の危機感を煽られ、御家人たちは異様な興奮の中で、「鎌倉方」について「京方」を攻めるという選択をした。
このとき「京方」を迎撃する戦術をとっていたら、幕府の基盤である東国武士が離反する恐れがあっただけでなく、長期戦となれば、畿内の近国や西国の武士たちが大量に朝廷側の追討軍として組織される可能性もあった。
「鎌倉方」は8年前の和田合戦で激闘を経験ずみであったから、戦況に応じた適格な指示を出すことができた。
「承久の乱」の敗北によって、「京方」は三人の院が流罪になる「三上皇配流」という前代未聞の結末を迎えた。後鳥羽上皇の流人生活は19年に及び、60歳で隠岐島で没した。あとの2人の上皇もそれぞれの配流地で死を迎えた。
歴史を学ぶことは、人間と社会を知ることだと、つくづく思わせる新書でした。
(2019年1月刊。900円+税)

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