弁護士会の読書

※本欄の記述はあくまで会員の個人的意見です。

2019年3月12日

多喜二・百合子・プロレタリア文学

日本史(戦前)


(霧山昴)
著者 多喜二・百合子研究会 、 出版  龍書房

小林多喜二の『蟹工船』が突如ブームとなったのは何年前のことでしょうか。日比谷公園での「年越し派遣村」と同じころだったでしょうか・・・。そのころは、連帯だとか友愛というのが言葉だけでなく実体があると実感していました。ところが、今ではヘイトスピーチのほうが、ひょっとしたら実体があるのかも・・・と心配になってくる雰囲気があります。残念です。
『蟹工船』って、わざとあいまいにしているのがあるんですね。初めて知りました。まず、労働時間です。船内では何時から何時まで働いたのか、明示されていません。朝3時から夜10時までの可能性もありますが、はっきりとは書かれていません。
漁夫と雑夫の違いも明確ではありません。そもそも、この船に何人乗っているのかも、あいまいです。「200人」とか、「3,400人」とか「400人に近い」というだけです。
『蟹工船』は、書かれていない空白部分があることによって、時代と国境を越えた普遍的なアピールを獲得した。
ふうん、そういう見方もできるんだねと思ったことでした。
監督の浅川については、血も涙もない残虐な監督というイメージが強い。しかし、浅川が直接的に肉体的暴力を振るった場面はほとんどない。むしろ、「人命よりはお金」という合理的な行動が認められる。
多喜二は「ノート稿」をつくっていました。まず大学ノートに書いて推敲したのです。そして、最後に原稿用紙に清書しました。かなりの「ノート稿」が残っているそうです。一度、現物を見てみたいものです。小樽の多喜二資料館に行けば見れるでしょうか・・・。
多喜二は、とても明るく、茶目っけがあって、楽しい人だったとのこと。
「中央公論」に『不在地主』が掲載されたことから、多喜二は拓殖銀行を解雇された。
多喜二は、1930年に『蟹工船』で不敬罪に問われ、治安維持法違反で起訴され、豊多摩刑務所に入れられた。1931年1月に保釈されたあと、7月にプロレタリア作家同盟の書記長となり、10月に日本共産党への入党が認められた。同年9月には中国で柳条湖事件が起きて、中国への侵略戦争が始まっている。
1932年春、文化団体への大弾圧が始まり、活動家は地下に潜った。
1933年(昭和8年)1月、多喜二は最後の小説『地区の人々』を書きあげた。同年2月20日正午過ぎ、スパイの手引で築地署の特高に逮捕され、その日のうちに拷問で虐殺された。ちょうど今から86年前の出来事です。
多喜二に関する論評のあと百合子の小説が論じられ、さらにプロレタリア文学の批評があります。黒島伝治というプロレタリア作家がいるとのことですが、その小説を私のセツラー仲間だった三浦光則氏がコメントしています。
戦前の日本が、あっというまに戦争に突き進んでいったプロセスを失敗の教訓として学ぶことには大きな意義があると、この本を読んで、つくづく思いました。ベース(三浦氏のセツラーネームです)、ありがとう。さらなる健筆を期待しています。
(2019年2月刊。1500円+税)

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