弁護士会の読書

※本欄の記述はあくまで会員の個人的意見です。

2019年2月13日

村役人のお仕事

日本史(江戸)


(霧山昴)
著者 山﨑 善弘 、 出版  東京堂出版

徳川社会は、村を基盤とした兵農分離の社会であり、村の運営は村役人らによって支えられる傾向が非常に強かった。
徳川社会を構成している最大の要素は村だった。その構成員の大半が百姓で、全人口の8割前後。支配者である武士は1割以下。
全国の村の数は、元禄10年(1697年)の時点で6万3千ほど。
領主は名主を中心とした村役人を通じて間接的に百姓を支配する方法をとった。幕藩領主は、村役人に村政を代行させることで、全国6万3千の村々を掌握し、百姓を支配した。
村の総括責任者は名主(なぬし)。地域によっては、庄屋あるいは肝煎(きもいり)。
名主は家格にもとづき領主によって任命されることが多く、百姓たちの推薦があるときでも、領主の許可が必要だった。
組頭(くみがしら)は、百姓の推薦や入札(いれふだ)で選任されるのが一般的だったが、この場合も領主による許可を必要とした。百姓代の選任方法は、百姓の推薦が一般的だった。
村は自治の単位であり、村役人がその先頭に立っていたことは事実だったが、村は幕藩領主によって支配の単位とされ、村役人はその内部で領主支配を実現する任にあたっていた。
村役人のうち、ときに重要な立場にあったのは名主で、名主は村の政治と自治の両方を担う存在だった。つまり、名主は村の行政官であるとともに村の代表者でもあった。
庄屋は村民の一員として公認され、村政を委任されていた。
村民は庄屋を、あくまで彼らの一員として公認し、村政を委任する形をとることによって、自分たちの代表者としてとらえ返した。
名主を中心として不断に働く村の自治に依拠することで、幕藩領主は村の支配も円滑に行うことができた。前者(村の自治)が後者(村の支配)を補完していた。
一般百姓が選挙によって名主を選んだことから、名主が村の代表者として位置づけられていたことは明らかだ。
年貢の徴集と上納は、名主の仕事のなかで、もっとも重視されていた。年貢や諸役などを村に上納させる制度を「村請(むらうけ)制」と呼び、その中心的役割は名主が担った。
名主は、ほとんど名誉職のようなものだった。
江戸時代、百姓はきちんと休んでいた。ただし、百姓の休日は全国共通ではなかった。徳川時代の百姓の休日は村ごとに決められていた。
徳川時代の後期には、商品・貨幣経済の進展によって農村内にも華美な風俗が浸透していった。そして、貧富の差が拡大した。
名主の仕事は、税務・警察・裁判などに及ぶ幅広いもの。徴税を行い、治安の維持に携わり、裁判権がなくても村の紛争解決にあたった。
大庄屋は、庄屋の上意に位置する村役人だった。大庄屋は村役人であり、百姓から任命された。自治を行うような性格(惣代性)はもたず、もっぱら藩権力の領内支配を担う藩役人的存在だった。
村の構成そして自治の実際を知ることが出来る、面白い本でした。
(2018年11月刊。2200円+税)

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