弁護士会の読書

※本欄の記述はあくまで会員の個人的意見です。

2018年8月10日

法学の誕生

司法


(霧山昴)
著者 内田 貴 、 出版  筑摩書房

近代日本にとって、法とは何だったのか、明治の日本で活躍した穂積(ほづみ)陳重(のぶしげ)と八束(やつか)兄弟の足跡とその学説を比較・検討した412頁もの大著です。
たくさんの著書が参考文献として紹介されていますので、それだけでも本格的学術書だというのは明らかで、私がどれほど理解できたのかは、いささか(かなり)心もとないものがあります。でも、せっかく最後まで読み通しましたので、心にとまった部分だけ紹介してみます。
まず、伊予松山出身の秋山好古(よしふる)、真之(さねゆき)兄弟は、司馬遼太郎の『坂の上の雲』で、日露戦争に至る日本人として、あまりにも有名です。
それに対して、伊予宇和島出身の穂積兄弟のほうは、世間的には知られていないだけでなく、学問的にも忘却の彼方にある。兄の陳重は、東京帝大教授から最後は枢密院議長にまでのぼりつめていて、明治民法の起草者の一人として知る人ぞ知る存在。弟の八束は、東京帝大の初代憲法担当教授だけで、天皇絶対の国家主義イデオローグとして、今日では全否定された存在。
本書は、そんな穂積兄弟に焦点をあてていますので、今どき、どうして・・・という疑問が湧いてきます。
ヨーロッパから法学が日本へ入ってきたとき、訳語をどうするか、大問題になった。自然法は「天然の本分」、国際法は「万国公法」そして「民人の本分」。「本分」とは、「権利」と訳される前の言葉。社会生活は「相生養の道」と訳されている。何と読むのでしょうか・・・?
戦後、最高裁判事になった穂積重遠(しげとう)は、戦前・戦中、東大の学生セツルメント活動を擁護した一人でもあります。
明治24年(1891年)に発生した大津事件のとき、陳重は大審院の児島惟謙院長に対して意見書を提出し、不敬罪を適用するのは不可だという児島院長の見解を支持した。ただ、これは正式な手続で求められて提出したのではないようです・・・。
陳重はヨーロッパに5年ほど留学したあと、明治14年(1881年)6月に帰国した。そして、すぐに東京大学の法学部教授兼法学部長に選ばれた。
陳重は、旧主君に対する忠誠と、父親・長兄に対する敬愛、そして自分の先祖に対する尊祟の念のきわめて強い人だった。また、宇和島の恩師に対する敬慕も格別だった。親兄弟、そして祖先に対する敬愛の念の延長として理解される家族国家観は、まさしく陳重の実感だったであろう。
八束は、陳重の5歳だけ年下の弟。八束とその弟子の上杉慎吉は、学界で孤立していった。八束は祖先教という言葉を用いて、天皇への崇敬の念を正当化しようとする。
日本という国家は、父母を同じくする家が重層的に重なり、それをさかのぼっていくと、万世一系の天皇家につながる。つまり、天皇の始祖は日本民族の始祖であり、日本という国は、その始祖の威霊のもとに国民の家が寄り集まって一つの血族的な団結を形づくっている。これこそ、わが国の民族的建国の基礎だという。
これは、実は、八束が学んだドイツナショナリズムにならった民族概念が宗教的装いで援用されている。万世一系の天皇のもとで歴史的に形成されてきた日本の国体という政治体制のもとでは、日本という国の家長である天皇は、通常の家における戸主と同じ地位にある。そして、通常の家で子が戸主である親に敬愛の念をもつように、日本では国民が天皇を敬愛し、他方、通常の家で戸主が家で戸主が家族を保護するように、日本という国では、天皇が国の家長として国民を保護する義務を負っていった。
家族をめぐる日本の伝統なるものは、一定の長い期間にわたって不変ではなく、そもそも一色でないうえに、たえざる変化の渦中にあった。
たとえば、庶民のあいだでは、財産の分割相続が広く実施されていた。つまり、明治民法における「家督相続」なるものは、実は明治民法とともに始まっている。このように、日本的家族観なるものは、明治期以降につくりあげられた「創られた伝統」の一つでしかない。
こんな難しい本でも、すでに第3刷まで発行しているとのこと。うらやましい限りです。
明治期の日本民法の生成過程を少しは理解できた気がしました。
(2018年7月刊。2900円+税)

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