弁護士会の読書

※本欄の記述はあくまで会員の個人的意見です。

2018年8月 8日

戊辰戦争後の青年武士とキリスト教

日本史(明治)

(霧山昴)
著者 目黒 順蔵 ・ 目黒 士門 、 出版 風濤社

『五日市憲法』(岩波新書)を読み終わって、戊辰戦争と自由民権運動の関わりを認識されられていると、その直後にフランス語仲間から、この本が贈られてきました。
戊辰戦争で負けて朝敵となった仙台藩士が東京に出てキリスト教とフランス語に出会い、学校の教員となったあと医師になり、故郷の仙台に戻って自由民権運動とも関わりをもったのでした。
目黒順蔵は仙台藩の次男として生まれた。戊辰戦争では仙台藩の兵士として参戦し、なんとか生きのびたが、「朝敵」、「奸党」の汚名を受けることになった。
明治4年(1871年)、順蔵は東京に出て、フランス人神父の主宰するマラン塾に入った。そして、キリスト教の洗礼を受けた。その後、葉山の学校で教員として働くようになり、さらに、東京の西洋医学校に入って医学を学んで、医師となった。
明治12年に医師として仙台に戻り、病院で働くようになった。
明治18年に、内外科と眼科を開業した。
明治39年、東京に転居した。長男三郎にカトリックとフランス語を学ばせるためだった。
目黒三郎は暁星小・中学校から東京外国語学校(東京外大)仏語部に入学した。そして、大正9年(1920年)4月から小樽高等商業学校(現・小樽商科大学)の助教授となった。当時の学生に小林多喜二や伊藤整などがいた。NHKの発足とともに始められた「フランス語講座」の初代の講師をつとめた。
私は弁護士になって以来、NHKラジオで毎朝フランス語講座を聴いています。いつまでたってもちっともうまく話せませんが、おかげで聞き取り能力だけはかなり(としか言えません)アップしました。
順蔵は、関東大震災の5年後の大正7年(1918年)に71歳で亡くなった。
この本は、三郎の死後、その書斎から順蔵の手書き原稿を発見したことから、順蔵の生きた社会状況を順蔵の書きのこした文章を手がかりとして再現したものです。
順蔵は大槻文彦(『大言海』の著者)と親交を結んでいた。
順蔵は古川で病院長をしながら自由民権運動に挺身する青年たちとまじわっていたが、それは村民や青年を扇動するものだとして仙台への転勤を命じられた。それが嫌で、独立・開業することになった。
戊辰戦争と自由民権運動の結びつき、またキリスト教やフランス語との結びつきの具体例が分かり、戊辰戦争のあとに苦労しながら奮闘し、自由民権運動にも目ざめたのが『五日市憲法』の千葉卓三郎だけでないことを知り、大変な感銘を受けました。
目黒ゆりえ様、大いに知的刺激を受けました。贈呈ありがとうございました。
(2018年7月刊。2800円+税)

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