弁護士会の読書

※本欄の記述はあくまで会員の個人的意見です。

2018年7月25日

1937年の日本人

日本史(戦前)

(霧山昴)
著者 山崎 雅弘 、 出版  朝日新聞出版

15年戦争とも言われていますが、一般には、1937年7月7日に中国の北京郊外で起きた蘆溝橋事件をきっかけとして日本は日中戦争に突入していったのでした。
北支事変、のちの支那事変の始まりです。事変とは戦争のことなのですが、宣戦布告されていないので、事変とごまかしたのです。
それは、ある日、突然に「平和の時代」から「戦争の時代」に激変したというものではなかった。むしろ、ゆるやかなグラデーションのような形で、人々の生活は少しずつ、戦争という特別なものに染まっていった。
この本は、少しずつ戦争への道に突きすすんでいった戦前の日本の状況を浮きぼりにしています。
2・26の起きた1936年は、国民が既成政党へ強い不信を抱き、また、軍部が政治的発言力を増大させていた。軍部は、軍事予算を拡張したいという思惑のもとで、「非常時」とか「準戦時」、「国難」というコトバで国民の危機感を煽るべく多用していた。
満州事変の1931年度の決算と、1937年度の予算を比較すると、予算総額は倍加し、陸海軍省費は3倍となった。
1937年5月、日本帝国政府としては支那に対し、侵略的な意図などないと発表した。そして、1940年に東京オリンピックの開催に向けて準備がすすんでいた。
北支事変において、紛争の原因は、あくまで中国側にあり、日本軍の対応は受け身であると日本側は発表した。
1937年の時点で、中国にいる日本人居留民は7万4千人。上海に2万6千人、青島の1万3千人。天津の1万1千人。北京は4千人でしかなかった。
中国の民衆からすると、日本軍はなにかと理由をつけては自国の領土に勝手に入りこんでくる外国軍だった。日本軍が「自衛」という名目で繰り返し行っている武力行使は、中国市民の目には「侵略」だった。
日本の財界人は、「北支事変」を、まさに天佑である」と信じ込んだ。
先の見通しが立たないまま拡大の一途をたどる日中戦争の長期化は、「挙国一致」という立派な大義名分の影で、じわじわと国民の生活を圧迫していった。
盧溝橋事件から、わずか3ヶ月で1万人ほどの日本軍が戦死した。おそるべき数字だ。中国側の死傷者数は42万人に達した。
1937年12月に検挙された人民戦線事件は、日本ですでに少数派になっていた政府批判者に決定的な打撃を与えた。戦争に反対したり、疑問を表明するものは、自動的に「国家への反逆者」とみなされ、社会的制裁の対象となった。
こうやって戦前の動きを振り返ってみると、まさしくアベ政権は日本の戦前の過ちを繰り返しつつあることがよく分かります。
(2018年4月刊。1800円+税)

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