弁護士会の読書

※本欄の記述はあくまで会員の個人的意見です。

2018年6月 9日

バテレンの世紀

日本史(戦国)

(霧山昴)
著者 渡辺 京二 、 出版  新潮社

日本にキリスト教が入ってきて、それなりに普及し、キリスト教が弾圧されたとき、少なからぬ日本人が宣教師とともに拷問に耐え、殉教していきました。
なぜ、キリスト教が一部的ではあっても広く熱狂的に普及したのか、そして、仏教を捨てて殉教までする多くの日本人を生みだした理由は何だったのか、島原の乱は百姓一揆と同じものなのか、違うものなのか・・・。それらの疑問について、深く掘り下げている本です。
イエズス会の宣教師は、たとえ奴隷であろうとも、キリスト教徒でありさえすれば、異教徒にとどまるよりははるかに幸福なのだとする観念をもっていた。つまり、キリスト教徒のみが真に人間の名に値する存在であって、それ以外のイスラム教徒と異教徒(この二者は異なるもの)は、悪魔を信じる外道である以上、世界支配者なるべきキリスト教徒化され支配されるしか救いの道はない。西洋人は主人であり、非西洋人は潜在的な奴隷なのである。
イエズス会は、従来の修道会とは、著しく相貌を異にしていた。終日、修道院に籠って祈りに明け暮れることを望まない。また、合唱祈祷や苦行に日時のほとんどを費やすことより、黙想や研学、さらに伝道活動を重視した。これは、まったく新しいスタイルの戦闘的な修道会だった。
日本を訪れたことのあるポルトガル船の船長は、日本人は知識欲が強いので、キリスト教の教理に耳を傾けるだろうとザビエルに語った。
日本人は気前が良く、ポルトガル人を家に招いて宿泊させる。好奇心が強くて、ヨーロッパについて知りたがる。
ザビエルが鹿児島に着いたのは1549年8月10日、日本を離れたのは2年3ヶ月後の1551年11月15日。滞日したのはわずか2年3ヶ月でしかない。しかも、ザビエルは最後まで日本語を習得しなかったし、布教の点では、ほとんど成果をあげていない。
ザビエルにとって日本人は、好奇心の強い、うるさい人々だった。相当うぬぼれの強い人々でもある。武器の使用と馬術にかけては、自分たちに及ぶ国民はいないと信じていて、好戦的だ。
日本人は、鎌倉新仏教の諸宗派の出現以来、新奇な分派には慣れっこだった。新奇な教えに対して、当時の日本人の大多数は、免疫をもっていた。日本人のうちキリスト教に入信したのは、貧民だった。都市部には町衆が存在していたし、町衆は神社仏閣を中心とする信仰共同体だったから、異教キリスト教の侵入をはね返す壁となった。
山口での布教が比較的に順調だったのは、まず武士層が入信したからでは・・・。九州の諸大名は、海外との貿易の利にひかれてキリスト教に近づいた。幾内の小領主層は、苛烈な、一切の秩序は失われる、カオスに似た状況だった。それは、頼れるものは自分しかいないという過激な孤独の心情を生み出した。キリスト教は、彼らの孤独な魂によほど訴えるものがあった。
信者であっても、キリシタンとして救済を得ることと、神仏に祈って御利益(ごりやく)を受けることは、まったく矛盾していなかった。つまり、日本人のキリスト教信者たちは、神々には、それぞれの特技に応じた使い道があると考えたのだ。こんなのは宣教師としては絶対に許されない考えである。
キリスト教徒の追放令が出たときの信者は全国に4万人。1598年3月、まだ日本にはキリスト教の宣教師が114名も残っていた。
家康はキリスト教への嫌悪を、貿易を促進したい一心で匿した。家康がキリスト教を黙認したところ、信者は37万人に達した。この当時の宣教師は34人いた。
雲仙の地獄での拷問は、殺さずに棄教させようとすることから続けられたもの。残虐を好んで宣教師や信者を拷問したのではない。殺さずに棄教させようとしたからこそ拷問という手段に訴えたのである。
堂々と460頁もある大作です。大変勉強になりました。さすが深さが違います。
(2018年3月刊。3200円+税)

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