弁護士会の読書

※本欄の記述はあくまで会員の個人的意見です。

2018年1月 7日

果てなき旅(下)

日本史(明治)


(霧山昴)
著者  日向 康 、 出版  福音館書店

 足尾銅山公害事件に取り組んだ田中正造の伝記の下巻です。軽く読み飛ばすつもりだったのですが、その扱ったテーマの重大さに押されて、そうは問屋がおろしませんでした。下巻だけでも読了するまで1ヶ月間ほどかかってしまいました(毎週日曜日のランチタイムに読んでいたのです・・・)。
 明治34年10月23日、田中正造は衆議院議員の職を辞した。翌月、銅山王・古河市兵衛の妻が神田川で水死体として発見された。同年12月、61歳の田中正造は天皇の馬車に対して直訴状を手にもって近づいた。「お願いの儀がございます」。この直訴状は、社会主義者の幸徳秋水が執筆した。
 幸徳秋水は、社会主義者として、事態の解決を天皇の手に頼ろうとする点に抵抗があり、また、いかにも大時代的な直訴状(じきそじょう)なるものを起草するのは、いかがかとためらった。しかし、長年にわたる苦闘に疲れている田中正造の姿を見て、断りきれなかった。
 田中正造は、自分は死んでもよいと考えていた。そして、鉱毒事件の解決のために社会主義者を巻き込もうと考えていた。
 ところが、田中正造は「狂人」として、何ら罰されることがなかった。田中正造を裁判にかけたら、足尾銅山による公害被害民を支援する世論が湧きたつ危険があった。それを政府は計算した。実際、田中正造の直訴をきっかけとして、鉱毒事件に対する世論が大きく湧きたった。新聞は、こぞって支援したし、内村鑑三や安倍磯雄、そして木下尚江などが被害者救済の演説会を開いた。さらに、明治34年の暮れ、東京在住の大学生たちが大挙して被害地を視察した。そして、鉱毒地救済婦人会も大活躍した。
 この大学生たちについて、結局、何の役にも立たないと田中正造は落胆しています。本当に残念です。学生の大部分は、わが身安全を第一と願う人間となって社会に出てしまう・・・。そうなんですよね・・・。実に痛い指摘です。東大闘争を経験した多くの東大生は権力の醜さを実感したと思うのですが、その多くがいつのまにか体制に順応していきました。
 田中正造に対して、「予戒令」(よかいれい)という措置が講じられたというのは初めて知りました。県知事や警視総監が発する制限命令です。
田中正造は73歳で亡くなりました。死んだとき残っていたのは菅(すげ)の小笠と1本の杖。信玄袋に入っていたのは、聖書と帝国憲法、そして日記帳、そのほか・・・。
 偉大なる、というか不屈の闘士である田中正造の生きざまを垣間見る思いのした本です。37年も前の古い本ですが、ネットで注文して読みました。大変読みごたえのある本です。
(1980年2月刊。1300円+税)

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