弁護士会の読書

※本欄の記述はあくまで会員の個人的意見です。

2017年10月19日

「飽食した悪魔」の戦後

日本史(戦前)


(霧山昴)
著者 加藤 哲郎 、 出版  花伝社

七三一部隊の中心部分は石井四郎をはじめとして終戦直前に満州から大量のデータと資材・金員とともに日本へ帰国し、部隊として存続していた。このことを初めて知りました。
そして末端の隊員には厳重な箝口令を敷いて軍人恩給も受けられないようにしながら、自分たちは大金をもとにのうのうと暮らし、多額の年金をもらっていたのです。そのうえ、アメリカ占領軍と裏取引して、人体実験のデータをアメリカに提供するかわりに戦犯として訴追されないという免責保証を得ていました。
こんな「悪」が栄えていいものでしょうか・・・。本当に疑問です。
1936年、軍令により関東軍防疫給水部(大日本帝国陸軍731部隊)が設立された。飛行場、神社、プールまである巨大な施設で、冷暖房完備の近代的施設をもち、監獄を付設して、少なくとも3000人を「実験」により殺した。1940年当時、年間予算1000万円(現在の90億円)が会計監査なしで支給されていた。
日本軍に抵抗したとして捕えた中国人、朝鮮人、ロシア人、モンゴル人などを人体実験のために収容し、囚人はマルタと呼んだ。憲兵・警察が容疑者を七三一部隊に移送してくるのを特移(特別移送扱い)と呼び、憲兵は特移を増やせば出世していった。その一人が伊東静子弁護士の父親で、44人を七三一部隊に特移扱いで送ったのです。
終戦時、残っていた400人の囚人を全員殺して遺体は燃やし、その灰は川に投げこんだ。
戦後、石井四郎は戦犯として追及されるのを恐れて、故郷の千葉では病死したとして偽の葬式までした。実際には、自宅をアメリカ兵相手の売春宿にして、ひっそり暮らしていたが1959年に67歳でガンによって死亡した。
七三一部隊が人体実験そして細菌戦を実際にやっていた事実が明るみに出ると、ジュネーブ議定書違反で問題となるだけでなく、七三一部隊を設立し動かしていた陸軍中央、それを承認していた昭和天皇の戦争責任問題にまで及ぶ危険があった。
七三一部隊について、関東軍参謀の担当は昭和天皇のいとこである竹田宮恒徳王であり、天皇の弟である秩父宮や三笠宮も視察に来ていた。昭和天皇は七三一部隊の存在を知り、中国での細菌戦を承認していたとみるのが自然である。
七三一部隊は終戦のころには、一方でペストノミを増産して最後の手段として「貧者の核兵器」を準備していたが、他方では敗戦時の証拠隠滅・部隊解体の準備もすすめていた。
七三一部隊の本部勤務員1300人の大部分は8月15日の前に満州から姿を消した。そして、日本本土で七三一部隊はよみがえることになった。七三一部隊の仮本部が置かれたのは金沢市の野間神社だった。
七三一部隊は満州から日本へ膨大な物資を運び込んだ。武器・弾薬や医薬品・実験機器・データ・研究書籍、そして現金・貴金属・証券類・・・。数千人分の寝具・夏冬衣料・携帯食料・工具・日用品もあった。
いったい、それらはどこへ行ったのでしょうか・・・。
七三一部隊は8月15日のあとに命からがら日本へ逃げ帰ってきたと考えていたのですが、まったく違いました。幹部連中は日本に戻ってからも引き続き給料までもらっていたとのこと、信じられません。
細菌戦の各種病原体による200人以上の症例から作成された顕微鏡用標本が8000枚も日本に持ち帰ってきていて、寺に隠したり、山中に埋められた。アメリカは、そのような貴重なデータを25万円(今日の2500万円相当)で買い取り、また、七三一部隊員の戦争責任を免除した。
石井四郎の隠匿資金は年間2000万円(現在の価値で20億円)とみられている。
七三一部隊の出身者たちが日本ブラッドバンクを設立し、のちにミドリ十字社となった。薬害エイズをひきおこした製薬会社である。
法曹界(とりわけ裁判所)で戦争責任が厳しく追及されているわけではありませんが、医学界ではもっと重大な戦争責任を問われるべき医師・医学者たちが出世していき、医師の世界に君臨していたようです。ひどいものです。
400頁もある貴重な大作です。戦前の日本人が中国大陸で実際に何をしたのか、忘れてよいはずがありません。これに「自虐史観」なんていう下劣なレッテルを貼るのはやめてください。
(2017年5月刊。3500円+税)

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