弁護士会の読書

※本欄の記述はあくまで会員の個人的意見です。

2017年10月 6日

日中戦争全史(下)

日本史(戦前)


(霧山昴)
著者 笠原 十九司 、 出版  高文研

1938年1月の大本営政府連絡会議において、陸軍の参謀本部は中国との長期泥沼戦に突入するのを阻止しようとした。なぜか・・・。
このころ日本陸軍は、3ヶ月に及んだ上海戦に19万人を投入し、戦死傷者4万人という大損害を蒙っていた。それ以上に戦病者も膨大だった。南京攻略戦に20万人の陸軍を投入し、「首都南京を占領すれば中国は屈服する」はずだったのに、失敗してしまった。ゴールの見えない長期戦・消耗戦に、陸軍はこれ以上の負担と犠牲を蒙るのを回避しようとしたのである。
これに対して海軍首脳は、日本という国の運命より、日中戦争に乗じて海軍臨時軍事費を存分につかって、仮想敵のアメリカ海軍・空軍に勝てる艦隊戦力と航空兵力をいかに構築するのかばかりが関心事だった。本当に無責任きわまりありません。海軍は平和派なんて、真っ赤なウソなのです。
1938年末、日本の動員兵力は陸軍で113万人、海軍で16万人、合計129万人。このうち中国に派遣されたのは関東軍をふくめて96万人に達していた。
1939年7月のノモンハン戦争において日本軍は圧倒的な近代兵器を大量に駆使するソ連赤軍に惨敗してしまった。戦死傷者は2万人近い。
敗戦の責任をとって関東軍のトップは更迭された。ところが強硬論によって関東軍を泥沼の苦戦に引きずり込んだ作戦参謀の服部卓四郎中佐や辻政信少佐は、やがて東京の参謀本部の作戦課長、作戦班長に就任し、アジア太平洋戦争開戦の推進者となった。
まことに無責任な軍幹部たちです。そして、服部卓四郎は戦後は戦史研究者として長生きしています。この服部史観は海軍を擁護する俗説を広めました。
1940年8月、八路軍が百団大戦を開始した。このころ、八路軍・新四軍は60万人、民兵は200万人。解放区の人口は4000万人に達していた。日本軍は八路軍の戦力を軽視し、分隊単位で高度分散配置していたので、八路軍は、道路・鉄道の各所を破壊して分断したうえで奇襲攻撃をかけた。
百団大戦は、日本軍(北支那方面軍)の八路軍に対する認識を一変させ、その作戦方針を転換させる契機となった。主敵が国民政府軍から共産党軍に移っただけでなく、軍隊を相手にすることから、抗日民衆を相手にする戦闘に変化していった。
百団大戦後、日本軍は「正面戦場(国民政府軍戦場)」と「後方戦場」(敵後戦場)(共産党軍戦場)という二つの戦場での戦闘を強いられるようになった。
1943年2月のガタルカナル作戦を立案した参謀本部の主役は田中新一作戦部長、服部卓四郎作戦課長、辻政信作戦班長だった。
「海軍は陸軍にひきずられて太平洋戦争に突入した」という俗説があるが、真実は、その逆だ。海軍は日中戦争を利用して仮想敵である対米決戦に勝利するために軍備と戦力を強化し、南進政策に備えた。
日中戦争のおぞましい実態、軍部指導部の無責任さが如実に描写・分析されている労作です。広く読まれることを願います。
(2017年7月刊。)

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