弁護士会の読書

※本欄の記述はあくまで会員の個人的意見です。

2017年6月16日

異郷に散った若い命

日本史(明治)

(霧山昴)
著者 高瀬 豊二 、 出版  オリオン舎

5月半ば群馬県にある富岡製糸場を見学してきました。世界遺産に登録されて見学者が急増したとのことでした。よく晴れた日曜日でしたが、大勢の小学生が教師に引率されて見学に来ていました。
広大な富岡製糸場の建物はよく保存されていて、一見の価値があります。一部の工場建屋では大がかりな復旧工事が進行中です。
官営富岡製糸場は、明治5年秋、フランス人指導者の下に開業した。欧米に比べてはるかに遅れていた日本の産業革命の夜明けを華やかに先端を切った画期的な工場だった。
ここで働く工女は、寄宿工女371人のうちの148人(40%)が士族出身者だった。
フランス人が赤いワインを飲むのを見て、若い娘を集めて生血を飲むのだと誤解して、応募者が少なかったという話が伝わっている。しかし、この話は疑問だ。フランスをふくめて外国人を知らない人が多い日本人が、ワインを外国人を飲むのを見たというはずはない。むしろ、これは、明治6年の徴兵令と、「血税一揆」ほうが関連しているのではないか・・・。
工女を出身別にみると、はじめは地元の群馬県出身者が多数を占めている。これに続いて、滋賀、長野、埼玉、東京、岐阜、愛知と続いている。明治14年ころからは、愛知、岐阜、大分など西南方面の人が増えている。
工女の死亡者は、明治9年から13年のあいだに集中し、明治13年の1年間に15人が亡くなっている。そして、死亡者は若い。最年少は、なんと9歳10ヶ月。最多が22歳までの17人で、次に20歳までの16人となっている。
富岡製糸所の募集要項は15歳から30歳までとなっていた。
9歳から10歳の少女たちが働いたということは小学生の年齢の工女たちがいたということです。むごいことですね。
有名な「ああ、野麦峠」は、岐阜県高山方面から長野県岡谷市の製糸工場に働きに来ていた工女が病気になって故郷に帰っていく(帰らされる)話です。
この本は墓石と過去帳で亡くなった女工たちの氏名となった女工たちの氏名と享年を明らかにしています。
日本の産業を底辺で支えて、人知れず若くして病死した女工たちの顕賞碑です。実に意義のある作業だと思いました。
官営富岡製糸所は明治26年に三井銀行の経営の移り、明治31年には工女230人のストライキがあった。そのあとの明治35年原合名会社に経営が移った。その後、片倉工業に移り、現在は、市営の施設となっている(ようです)。
私は生糸が出来る過程がようやく分かりました。今では全自動で出来るなんて、すごいことですね。
(2014年7月刊。926円+税)

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