弁護士会の読書

※本欄の記述はあくまで会員の個人的意見です。

2017年1月19日

南朝研究の最前線

日本史(鎌倉時代)

(霧山昴)
著者 呉座 勇一 、 出版  洋泉社歴史新書y

日本に二つの朝廷が併存していた時期が60年近くも続いたことがありました。鎌倉時代末期の南北朝時代です。後醍醐天皇が吉野に南朝を樹立したのが始まりです。
戦前は、この南朝が正統とされ、楠木正成や新田義貞が忠臣で、足利尊氏は逆賊とされていた。戦後になって、それが逆転してしまった。楠木正成は、むしろ「悪党」とされた。
この本は、最新の研究成果をふまえて、従来の通説をいくつもの点で覆しています。
後醍醐政権(南朝)には、旧幕府の武家官僚が多く参加し、その政権が崩壊すると、次に室町幕府に活躍の場を求めた。したがって、鎌倉幕府~建武政権~室町幕府のあいだには、スタッフの連続性が認められる。後醍醐天皇の人事は、良く言えば堅実、悪く言えば平凡なものだった。
朝廷の政治は、政権を担当する院・天皇と評定衆(議定衆)とが協力して進められていた。政権を勝ちとるために有効な方法と考えられていたのが訴訟制度の充実だった。
訴訟を扱う記録所に訴訟当事者が口頭弁論をする「庭中(ていちゅう)」と呼ばれる法廷を設けた。さらには、院への取り次ぎ役である伝奏(でんそう)を訴訟処理の中枢に起用することで、より早く裁許が出せるよう改善した。
どの政権も、徳政に取り組んでいることをアピールするため、訴訟制度の整備に心血を注いでいた。
日本人は昔から裁判を嫌っていたという俗説が一般化していますが、弁護士を40年以上している私は、決してそんなことはないと日々、実感しています。むしろ、日本人は、文章を書けることがあたりまえだったので、昔から裁判で決着をつけようと考えている人のほうが多かったのです。
鎌倉時代の後期、荘園社会の動揺などから、朝廷に持ち込まれる訴訟が増えていて、それを裁決する治天の君が果たす役割が大きくなっていた。
朝廷の公家たちにとって、多くの先例をうち破った後醍醐の斬新で意欲的な政治姿勢など、狂気の政道にすぎなかった。
天皇は、記録神話によると、最高の祭祀者として神聖視される存在であった。そのため、天皇は、退位して上皇になることで初めて、仏教に積極的に関わることが認められた。
南北朝の対立・抗争事件の実情をよく知ることのできる意欲的な新書です。
(2016年7月刊。1000円+税)

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