弁護士会の読書

※本欄の記述はあくまで会員の個人的意見です。

2016年2月 7日

真田一族と幸村の城

日本史(戦国)

(霧山昴)
著者  山名 美和子 、 出版  角川新書

真田幸村のことがよく分かる新書です。
真田一族は信州小県(ちいさかた)地方、上田盆地の北東隅の真田の里に発祥した小さい豪族。戦国時代、真田の里の四囲には、群雄が勢力を競って、ひしめきあっていた。
小豪族の真田氏は、大勢力の真っただ中をかいくぐって台頭し、戦国大名にのしあがり、激動の世に名をとどろかせた。真田三代は、すぐれた調略戦を駆使した。
真田一族は、時勢に応じて武田、織田、豊臣、上杉、徳川と同盟したが、武田のほかは主君としていない。
真田幸村の父・昌幸は、秀吉から「表裏比興(ひょうりひきょう)の者」と言われた。これは、卑怯者というより、変幻自在の知略策謀による、あざやかな出前進退が興味深いというのもで、いわば戦国武将へのほめ言葉だ。
真田一族は六文銭(六連銭)の旗のもと、覇者への野望をいだくこともなく、国のごとく時代を疾走していった。
ヤマカン(山勘)というのは、当て推量のこと。山本勘助が上杉謙信との戦いのときに霧を読み誤ったことから来る言葉。
天正13年(1585年)、昌幸と家康とが戦った第一次上田合戦のとき、徳川軍の戦死者1300人、これに対して真田軍は、わずか40人のみ。真田軍の大勝利だった。
幸村が無名だったのは、次男だったから。江戸時代の前まで、長子相続は定まっていなかった。
幸村は20歳からの12年間を、秀吉の馬廻衆(近習)として秀吉のそばに仕えた。父の昌幸は、嫡子の信幸を家康に仕えさせ、幸村を秀吉の人質にした。これは、戦国の世には、よくあること。
戦国武将の多くは、世俗権力の介入を拒む高野山に菩提所をもちたいと願った。幸村の兄・信之は、93歳まで長生きし、戦国時代を知る語り部として奉公した。
真田家は、江戸時代に老中まで出して、名功として明治まで生き残った。
幸村は高野山においてたくさんの子らの声に囲まれていた。戦国武将の一人として、正室のほかに4人から5人の特定の女性がいて、子どもも10人を超えることは珍しくなかった。 
気軽に読める新書です。
(2015年9月刊。800円+税)

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