弁護士会の読書

※本欄の記述はあくまで会員の個人的意見です。

2015年10月10日

遠山金四郎の時代

日本史(江戸)

(霧山昴)
著者 藤田 覚   出版 講談社学術文庫
 
ご存知、遠山の金さんの実像を探った本です。なるほど、そうだったのかと膝を打ちながら読みすすめました。江戸時代の社会的状況を明解に説明していますので、背中に桜吹雪の名奉行がなぜ世間に大受けしてきたのか、よく分かります。
江戸時代の名奉行として有名なのは、大岡越前守(えちぜんのかみ)忠相(ただすけ)と遠山左衛門尉景元(さえもんのじょう・かげもと)の二人。大岡越前守は八代将軍吉宗の時代。そして、遠山景元は水野忠邦による天保の改革のころの町奉行。
「大岡政談」は、実際の大岡とは関係のない創作だということが判明している。しかし、遠山の金さんにはタネ本はない。
遠山の金さんの場合は、天保の改革という厳しい政治改革をすすめていた老中・水野忠邦と、その下で活躍した町奉行・鳥居燿蔵という敵(かたき)役がいてこそだった。
刺青(分身、入墨)は、天保13年(1842年)には、幕府が禁止令を出さざるをえないほどに流行していた。
遠山景元は、町奉行在職はのべ12年に及んだ。在職当時から名奉行として評判が高かった。12代将軍・家慶(いえよし)は遠山景元を公の場でほめ、将軍のお墨付きを得た。
この遠山景元は、天保の改革をすすめようとする老中・水野忠邦と意見が合わなかった。
その前提には、江戸の町の深刻な不景気があった。遠山景元は、身分不相応のぜいたくはいけないが、江戸の町はにぎやかで繁栄させるべきで、さびれさせてはいけなと考えた。これに対して、老中・水野忠邦は、ぜいたく禁止を徹底すべしと考えた。
このころ、江戸の町には、なんと233ヶ所もの寄席があった。老中・水野忠邦はそれを全廃せよと迫った。遠山景元たちの必死の抵抗で全廃は免れたものの、わずか15ヶ所だけ残った。
寄席は、入場料が安く、下層町人にも楽しめる大衆的娯楽施設だった。入場料は銭20文前後、いろいろあわせて銭50文で一夜を楽しめた。奉公人などが、男女、年齢を問わず、寄席に詰めかけて楽しんでいた。
天保の改革が失敗したあと、寄席はたちまち復活し、700軒にまで増えている。
遠山景元のせりふとして次のように言わせている。
「江戸ほどの大都会には、相当の遊山場(ゆさんば)がなくてはならぬ。いかに御倹約の世の中でも、人間は牛馬のように働いてばかりはいられまい。それ相当の休息もせねばならぬ、それ相当の物見遊山もせねばならぬ。吉原通いをするよりは、まだしも芝居見物のほうがましではあるまいかな。いかなる御政道も、しょせんは人間を相手のことだ。人間が楽しく働いて、楽しく暮らされるようでなければ、まことの御政道とは申されまい」
遠山の金さんら名奉行の主張の背景として、天明の江戸打ちこわしのような下層民衆の蜂起騒動への恐怖が存在していた。営業と生活が成り立たないような状況に追い込まれれば、事態を打開するために蜂起し、騒動を引きおこすことによって、幕府に手痛い打撃を与えることができるほどに、江戸の民衆は政治的に成長していた。
名奉行の陰には都市下層民衆あり、だった。そして、天保の改革という、江戸民衆に苛酷な政治改革を強引にすすめていった水野忠邦や鳥居熠蔵という敵侍がいてこそ、名奉行、遠山の金さん物語が生まれたのであろう。
なーるほど、よくよく分かりました。
(2015年8月刊。900円+税)

  • URL

カテゴリー

Backnumber

最近のエントリー