弁護士会の読書

※本欄の記述はあくまで会員の個人的意見です。

2015年9月11日

人びとはなぜ満州へ渡ったのか

日本史(戦前)


(霧山昴)
著者 小林 信介   出版 世界思想社
 
戦前の満州(現在の中国東北部)には、100万人をこえる日本人がいた。その3分の1は農業移民だった。そして、長野県は満州移民をもっとも多く送り出した。
満州への農業移民には、3つのパターンがあった。
自由移民・・・個人単位で満州に渡った。
分村移民・・・ひとつの村が送り出しの母体となって移民を送り出す。
分郷移民・・・近隣町村が合同してひとつの開拓団を組織した。
戦前の恐慌は1934年が底で、その後は長野県の経済は回復傾向にあった。そして、徴兵・徴用が相次いだことから、農村は労働力不足の状況となった。そこで、農家の過剰人口を前提とする大量の移民送出は困難になったが、大陸政策上の理由から、満州移民は要求され続けた。
一般開拓団が行き詰まりをみせはじめると、多くの青少年が義勇軍として満州へ送られた。関東軍の予備兵力である。
1945年8月9日、ソ連軍は満州へ侵攻を始めた。このとき、関東軍は主力が南方に派遣されており、また、関東軍による「根こそぎ動員」によって満州各地の開拓村には壮年男子はおらず、老人、女性、子どもが残されていた。
満州開拓は、日本の大陸侵略を前提としたものであり、満州の大地に根をおろしていなかった。現地の中国人は、開拓民をうらんでおり、日本人を歓迎するどころではなかった。
長野県が送り出した開拓民2万6000人のうち、日本に帰還したのは1万1000人ほど。半数以上が日本に帰国していない。帰国できなかった。
この本は、阿智村の長岳寺の住職・山本慈昭氏の活動を紹介しています。私も先日、映画『望郷の鐘』をみました。山本慈昭氏ら開拓民の悲惨な体験を身近に実感できる内容の映画です。泣けて仕方がありませんでした。2013年4月には、満蒙開拓平和記念館が開館しています。
長野県が青少年を満州へ義勇軍として送り出すのが多かった原因の一つに、教師が農家の二・三男をそそのかしたことがあげられる。それは、前段に長野県では「教員赤化」事件で138人という、大量の意欲的な教師が特高警察から逮捕されたこと、このとき信濃教育会も当局からにらまれたことによる。そこで、信濃教育会は、「海外発展」を打ち出すことによって信濃教育会への風当たりを援和させようとしたのだろう。
国の政策(国策)は、コロコロ変わる。その犠牲(しわ寄せ)は国民にかぶってくる。
このことを改めて実感させられる本でした。アベ政権にだまされてはいけません。「国を守るため」というのは、「国民を守る」ことに直結しておらず、矛盾することが多いことを学ぶべきだと痛感させられました。
(2015年8月刊。2500円+税)
 

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