弁護士会の読書

※本欄の記述はあくまで会員の個人的意見です。

2015年4月10日

明と暗のノモンハン戦史

日本史(戦前)


著者  秦 郁彦 、 出版  PHP研究所

 戦前の939年に起きたノモンハン事件について、旧ソ連側の最新の資料をふまえた今日における到達点です。
 ノモンハン事件は、形のうえでは満州国とモンゴル間の国境紛争であり、満蒙両軍も出動したが、実質的には日本の関東軍と極東ソ連軍との4ヶ月にわたる激戦となり、双方とも2万人前後の人的損害を出して停戦した。規模からすると、小型の戦争並みであった。
 そして、人的損害の面では、ソ連軍が日本軍を上まわったことは確実なので、日本人の一部には、「日本軍の大勝利」と言ってよいとする。しかし、戦闘の勝敗は、人的損害だけでなく、目的達成度や政治的影響などもふまえて総合的に論じる必要がある。
関東軍には、「負けていない」「もう一押しで勝てた」と強弁する幹部も少なくなかったが、1万8千人以上の死傷者を出し、ハルハ河東岸の係争地域を失った事実から、陸軍中央部は敗戦感を持ったものが多かった。
 ノモンハン事件の師団長であり、後始末にあたった沢田茂中将は、「陸軍はじまって以来の大敗戦」「国軍未曾有の不祥事」だとした。大本営の作戦課長だった稲田正純大佐は、「莫大な死傷、肺尖の汚点」とし、畑俊六・陸軍大臣も、「大失態」と認識していた。
 事件の最終局面で、ソ連軍は680両の戦車を擁していたのに、日本軍の戦車は60両に過ぎなかった。わずか一割である。
 著者は、ノモンハン事件の総評として「関東軍の勇み足と火遊びのような冒険主義。それは奇妙で残酷な戦いだった。どちらも勝たなかったし、どちらも負けなかった」(半藤一利)というのがあたっているとしています。
 ノモンハン事件で、日本陸軍は戦車対戦車の対決を初めて経験した。
 ソ連軍の戦車は、火炎びんにやられたのは事実だが、それ以上に対戦車砲、そして75ミリ野砲によって撃破された。火炎瓶は武勇伝の類でしかない。
 日本軍(関東軍)は、手持ちの兵力と資材でたたかった。それに対してソ連軍は、中央の積極的支持を受けて、3ヶ月にわたって、兵力の集中と補給物資の蓄積を進めた。
 ノモンハン航空戦については、飛行機と人員の損失数では、日ソはほぼ均等だった。日ソともに、航空戦は、戦局の帰結に結びつくほどの影響は与えなかった。
 ノモンハン事件が、日本軍の一方的敗北でなかったことは確かのようです。しかし、それまで、ソ連軍なんてすぐにもやっつけられると思っていた関東軍の思いあがりが叩きのめされたのも事実なのです。それにもかかわらず、日本軍の責任者は辻政信参謀をはじめとして、のうのうと戦後まで日本軍を指揮していたのです。これまた許せない思いです。
 敵をバカにして、戦争に勝てるはずがありませんよね。軍事指導部の独走はひどいものがありました。
(2014年7月刊。2800円+税)

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