弁護士会の読書

※本欄の記述はあくまで会員の個人的意見です。

2015年1月23日

文革

中国


著者  董 国強  、 出版  築地書館

南京大学14人の証言、こういうサブタイトルのついた、かつての中国で吹き荒れた文化大革命の体験談を集めた本です。
私も南京に行ったことがあります。とても大きな都市です。南京大学には行っていませんが、南京の城壁にはのぼってみました。とても大きな城壁です。
日本軍は1937年12月、南京事件(南京大虐殺)を起こしています。30万人かどうかはともかくとして、日本軍が中国軍の敗残兵を大量に殺害し、罪なき多数の市民を無残に殺したうえ、無数の女性を強姦した事実は絶対に消せるものではありません。加害者は忘れても、被害者はずっと後の世代まで忘れることができません。
南京は日本軍の支配下から脱したあと、重慶から移ってきた蒋介石政権が首都としたこともある重要な都市です。そこにある南京大学は、北京大学と並ぶ中国でも有数の大学です。その南京大学における文化大革命の顛末が、当時、教授や学生だった14人から語られていて、大変興味深い内容になっています。
南京大学での文革の開始は、わずかに北京大学での動きに遅れるだけだった。
文化大革命における大衆運動が想像外にエスカレートした背景は・・・。
まず、毛沢東の政治的威光。当時、毛の権威は絶大だった。毛思想教育が徹底しており、毛の呼びかけには何らかの形で応える政治的必要があった。
次に、共産党政権への不満である。階級区分による差別、私生活の管理に対する不満、非正規雇用が増加し、社会には不満が渦巻いていた。したがって、文革に名をかりて、自らの不満解消を図る人々も少なくなかった。
1971年9月の林彪事件は、紅衛兵も海外の文革礼賛派も幻滅させ、文革への疑念を生じさせた。
1974年の批林批孔運動のときには、過去の熱狂は失われていた。
文革の運動に積極的に参加していた人々の多くは、個人的な目的を心に抱いていた。家庭条件が悪く、自分の資質が良くない人は、文化大革命の期間を通じて「造反」「経験交流」などに出かけ、多くの利益を得た。
農村に追いやられた学生たちは、そこで農民の大変な生活を目にした。農民の生きていく唯一の目的が、いかに腹を満たすことであるかを知った。この現実を見て、学生たちの考え方が大きく変わった。
当時の農民には、ほとんど娯楽と呼べるものはなかった。彼らの精神生活は、きわめて貧困だった。しかし、農民もばかではなかった。彼らには彼らの考え方があり、知恵があった。
重大な言い間違いをしたとき、苦労して育ててきた豚を殺し、村人や幹部を招いて宴会をするのだ。そうすると、何事もなかったことになる。
農民は懐中電灯すら買えなかった。しかし、人間性は失っていなかった。何も持ってなかったが、善良だった。
南京大学では文革期に20人以上も自殺した。しかし、人間性のまったく失われてしまった時代にあっては、自殺した者も屈辱に耐えて生き抜いた者も、どちらも弱者とは言えない。自殺は自尊心と人格を守るため、本人の生命を犠牲にし、家族の長期にわたる苦しみにもかかわらず選択されたもの。一方、生き抜いた者も、自尊心を売り渡すことを余儀なくされ、屈辱と肉体の苦しみを我慢しながら、最後に誰が笑うのかを歯軋りをこらえて見ようとしたのだ。
批判闘争が行われるときには、頭を下げて、ひたすら主催者が『毛主席語録』の一節を読むのを聞き、今日の批判がどの程度のものかを判断する。もし、『毛首席語録』のなかの「革命は、客を招いて食事をすることではない・・・」が読まれたら、その日の批判は厳しく、心して対応しなければならなかった。
毛沢東の犯した誤りは、極めて重大であって、「誤り」という言葉では軽すぎる。文化大革命が中国の民族と国家に与えた損害は空前絶後のものだ。
文革という運動は、個人の精神にまで及んで、ふだんであれば現れにくい部分が曝露される結果になった。彼らは「革命の継続」というお題目の下で、私怨を晴らした。
上のやることを、下も真似して、どこでも同じことが起きた。分配された仕事に不満をもっていた人たちが動いたのだ。こういう人たちの自己顕示欲と野心の心強さは、学生時代からみられた。
育ちの良い青年学生たちは、若くて単純だったので、簡単に巻き込まれ、素朴な階級感情が刺激された。保身に走った人たちもいる。場合によっては、あえて過激な言動をすることで攻撃から自分を守っていた。
南京大学では、造反派に攻撃された死んだ人はいない。しかし中学校では、教師や校長の多くが学生に殺された。南京大学で殺された人がいないのは、南京大学の造反派は、南京大学そのものではなく、省委員会に関心をもっていたことによる。南京大学には何のうまみもなかった。
しかし、中学校の事情は違っていた。彼らにとって権力など、どうでもよかった。そんなものには興味がなく、暴れ回ることで単純に気持ちを発散させていた。ふだん生徒に対して厳しい先生は徹底にやられた。それに対して、南京大学の造反派は、はじめから教師に興味をもっていなかった。
南京大学の死者は、造反派が造反派にやられるという形の内紛によるものだった。
文化大革命は、始まったときから、完全な権力闘争だった。
毛主席の「経験大交流」の呼びかけがあったので、学生たちは、この機会に乗じて遊びに行った。みな見識を広げたいと思った。これを機会に各地の風景を観光して回った。
「経験交流」では、一ヶ所に最低3泊4日いることができ、出発のときには列車で食べるように、弁当箱一杯にご飯を詰めてもらえた。マントウも、蒸しパンも無料で食べられた。
1976年の第一次天安門事件は、名義上は四人組への反対だったが、実際には毛沢東と文革への反対だった。これは、毛沢東自身もはっきり自覚していたはずだ。
「批林批孔」運動のときには、人民大衆の消極的な拒絶にあった。
南京大学の紅衛兵は北京へ行き、北京大学で文革を引き起こした黒幕と出会った。それは、康生の妻だった。そして、上海の張春橋を紹介されて会っている。
文化大革命は、さまざまなものが上級機関と密接にからみあっていた。大衆組織間の是非も、実際には上級機関の一言によって左右された。中央の指示がなければ、造反派は一日だって存在できなかった。「お前たちは反革命組織だ」と言われたら、たちまち反革命組織になってしまう。
文化大革命では、末端の人々はみな操り人形で、上級機関に操作されていただけ。当時の熱狂的な状況のなかで、中央に従属して大騒ぎしていただけのこと。しかし、不幸なことに、誰も逃げることは出来なかった。
国家、共産党、人民解放軍には共通する特徴がある。それは派閥が存在すること。誰がどの派閥か、みな知っていた。文革で、この矛盾が表面化した。中国人は、「内輪の闘争」の能力がある。これは共産党ではなく、封建主義だ。
文革の後遺症は克服されていない。文革の動乱を経て、誰もが人間関係で傷ついた。文革中に他人を攻撃した人は、攻撃された人に謝罪した。しかし、内心の腫物が完全に取り除かれたとは言えない。
派閥問題の影響も残っている。過去に同じ派閥に属していた人とは戦友と同じつながりをもち、一種の個人資源となった。同じ派閥に属さなかった者は、学術問題ですらもめて、徒党を組んで意見の異なる人を攻撃した。
文革は社会の気風を破壊した。詐欺や日和見主義などで道義を論ぜず、良識と人格を売り払い、文革に利益を求めた人もいた。これらが批判・清算されないまま、人々の道徳観や価値観が悪くなった。また、共産党の名声も傷ついた。これによってブルジョワ的自由化思潮が発展し、蔓延する条件となった。
誤りの多くは清算できないままで、はっきりしていないことも多い。そのため、現在でも、毛沢東と文革に対する深層での見方は簡単に統一できない。
実際のところ、文革のなかには抜本的に、どのような民主も存在しなかった。いわゆる「大民主」とは、毛沢東の「左」の専制路線のもとの暴虐政治だった。
運動の初期、誰もが文革は現体制を転覆する革命だと誤解していた。まさか、実際の結果が、それまでの専制体制をさらに強化することになろうとは思いもしなかった。
中国の統治は、基本的に暴力と恐怖による。畏怖の気持ちと、服従しなければ、すべてを失ってしまうという社会心理がつくり出されている。
文化大革命を体験者が振り返った貴重な本です。正月やすみ、人間ドッグのときにホテルで熟読しました。

(2009年12月刊。2800円+税)

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