弁護士会の読書

※本欄の記述はあくまで会員の個人的意見です。

2015年1月 3日

藤原清衝


著者  入間田 宣夫 、 出版  集英社

 平泉の中尊寺には行ったことがあります。黄金色に輝く金堂の見事さには息を呑むばかりでした。奥州に花咲かせた平泉藤原氏三代の初代・藤原清衡(きよひら)の果たした偉業をしっかり認識させられた本です。
 大治元年(1126年)春3月24日、中尊寺鎮護国家大伽藍(がらん)の造営を祝う盛大な儀礼・落慶供養(らっけいくよう)の法要が開催された。ときに清衡は71歳。
 大伽藍の中心には、三間四面の檜皮葺(ひわだぶき)の本堂(金堂)には、丈六(じょうろく)皆金色(かいこんじき)釈迦三尊像が安置され、その左右には50体の脇士侍者(わきしじしゃ)がそれぞれ立ち並んでいる。このモデルは、御堂関白・藤原道長の創建した京都の法成寺(ほうじょうじ)であった。
 中尊寺の仏像群は京都から招かれた著名な仏師の手になるものであり、建物も京都方面から招かれた最高水準の大工によって建立された。
 二階瓦葺の経蔵(きょうぞう)には、金銀泥の一切経、5400巻が収納されている。
 経巻は金泥の文字が1行、次に銀泥の文字が1行、そしてまた金泥の文字が1行というように金文字と銀文字とを交互に用いている。さらに、経巻の料紙には、紺色を、経巻の軸には玉を用いた。法華経10巻も1000部セットが用意された。
 二階の鐘楼には、20釣の洪鐘が懸けられ、その鐘の音は千界のかなた、宇宙の果てまで及ぶかのように、大きく鳴り響く。そして、この日は、実に1500人もの僧衆を招いての大法要であった。
 千僧供養(せんぞうくよう)は、天皇・上皇あるいは摂政・関白などが主催し、朝廷や法勝寺・延暦寺・興福寺ほかの諸大寺でしかおこなえないものであった。遠く離れたみちのくにおいて、しかも一介の地方豪族にすぎない。清衡の主催で本来なら出来るはずのない興業だった。
大伽藍の造営に寄せる願文は、当時きっての大学者(文章博士(もんじょうはかせ)、大学頭(だいがくのかみ))、右京丈夫(だいぶ)藤原敦光朝臣(あそん)の起草であった。
 そして、この大伽藍には、「御願寺」という金看板がかけられた。「禅定法皇」(白河上皇)の発願(ほつがん)によって建立された国家的な寺院としての金看板である。
 清衡の願いは、前九年合戦そしてあと三年合戦によって戦い死んだ敵味方の人々を等しく救済し、極楽浄土に導くことであった。藤原清衡は、自らを「東夷の遠酋(とういのおんしゅう)」と呼んだ。東辺の蝦夷集団を束ねるべき、遠い昔から酋長の家柄に属するもとのということである。
 また、「俘囚の上頭(ふしゅうのじょうとう)」とも自称した。朝廷に服属する蝦夷集団の棟梁ということである。同時に清衡は、「弟子(ていし)」という一人称も付している。弟子とは仏弟子のこと。天皇や道長が自らの名前の上につけた言葉である。
 藤原清衡の前半生は凄まじいものがあった。幼少にして、父親(経清)が斬首された。母親は敵将の息子に再嫁させられた。義理の兄に反旗を翻し、父親違いの弟によって、妻子・眷族(けんぞく)を殺害された、自らの命も狙われた。さらには、その弟を攻め滅ぼし、そのうち取られた首と対面した。そして、清衡は自ら予告したとおり、金色堂内において、本尊阿弥陀仏の御前に坐して合掌し、念仏を唱えながら眠るがごとく目を閉じた。清衡73歳。大治3年(1128年)秋7月16日のことだった。
 奥州三代の初代・清衡が、これほどの人だったということを初めて知りました。平泉の中尊寺・金色堂の最良のガイドブックです。
(2014年9月刊。1750円+税)

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