弁護士会の読書

※本欄の記述はあくまで会員の個人的意見です。

2014年11月 2日

潜伏キリシタン

日本史(江戸)


著者  大橋 幸泰 、 出版  講談社選書メチエ

 宗教とは何か?
 「宗教とは、人間がその有限性に目覚めたときに活動を開始する、人間にとってもっとも基本的な営みである」(阿満利磨)
 江戸時代のキリシタンについて「隠れキリシタン」と呼ぶことが直ちに誤りだとは言えない。しかし、江戸時代はむしろ潜伏状態にあったとするのが実情にあっている。
 豊臣秀吉は、天正15年(1587年)6月18日に「覚」11ヶ条を、翌19日に「定」5ヶ条を発令してキリシタンを制限した。ただし、秀吉はキリシタンを制限しようとはしたが、明快に禁止までは踏み込まなかった。南蛮貿易の収益が宣教活動の資金源になっていた構造からして、キリシタンを禁止すれば南蛮貿易もあきらめるしかなかったからだ。
 徳川幕府になってから、慶長17年(1612年)に岡本大八事件が起きて、キリシタンがはっきり禁じられた。しかし、これで全国一律にキリシタン排除が進んだのではない。幕府は、具体的なキリシタン禁制の方法を示さなかった、というより、示さなかった。
 なぜなら、近世期キリシタンをあぶり出すための制度として有効に機能した寺請を一律に実施するための条件が、この17世紀前期では、まだ整っていなかったから。村社会の寺院の成立と百姓の家の自立という二つの条件が整うのは、7世紀中後期のことである。
 キリシタンについて、伴天連門徒と表記されていたのが、「切支丹」とされたのは1640年代から。それは、1637年(寛永14年)の島原天草一揆を契機としている。
 島原天草一揆は、近年は宗教戦争とみる方が有力である。
 一揆勢は、混成集団だった。キリシタンの神戚のもとに、混成集団としての一揆勢は、正当性を帯びた集団となって幕藩権力に抵抗した。一揆指導者は混成集団であること自体を否定し、最後までキリシタンとして命運を決することを表明した。
 近世人にとって、一揆とは、島原天草一揆のことをイメージした。
 寛政期(1800年ころ)は、潜伏キリシタン集団として存在するなかではないかと疑われる事件が起こり始める時期でもある。
 島原天草一揆の強烈な記憶によって、「切支丹」とは世俗秩序を乱す邪教であり、一揆とは、そのような邪悪な集団を引きおこす武力蜂起であるとするイメージが定着していた。
 このとき、幕府軍にも多数の犠牲者が出た。佐賀藩では、50年ごとに藩をあげての法要をしてきた。明治になってからも、250年忌法要が行われた(明治20年、1887年)。このとき、戦死者の子孫は藩主に拝謁を許されたあと、料理と酒をふるまわれた。
 こうして、「切支丹」は、常に島原天草一揆とセットでイメージされた。
 「切支丹」は、18世紀以降、そのイメージの貧困化にともない、怪しげなものを批判するときの呼称として使われるようになった。潜伏キリシタンも村請制のもとに組織された生活共同体としての村社会の一員だった。
 一村丸ごと信徒であったというのではなく、信徒と非信徒とが混在していた。彼らは信徒としてコンフラリアという信仰共同体の一員であるとともに、村請制のもとに運営される近世村落という生活共同体の一員でもあった。
潜伏キリシタンが特別に極貧であったとは言えない。村の機能の停止は、キリシタンはもちろん非キリシタンにとっても死活問題であったから、村社会という枠組みと維持するためにも、キリシタンは放っておかれたのが実際だろう。
村社会において、キリシタンが存在することは明白のことであったが、世俗秩序を維持するためにキリシタンの存在は許容されていた。
江戸時代の潜伏キリシタンは、実のところ、模範的な百姓として許容されていたから、明治まで生き延びることができた。
 それにしても、よく調べてあり、とても納得させられる本でした。明治時代の「カクレキリシタン」とあわせて、ご一読ください。日本人の心を知ることができます。
(2014年5月刊。1650円+税)

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