弁護士会の読書

※本欄の記述はあくまで会員の個人的意見です。

2014年10月13日

天下統一

日本史(戦国)


著者  藤田 達生 、 出版  中公新書

 家康が攻めたてた大坂の陣では、火縄銃と大砲によって間断ない攻撃が加えられた。大砲の玉は、素材や形状が多様だった。焼夷弾や散弾などもあった。後装式の仏郎機(フランキ)砲は、城門や要塞の破壊に使われた。家康が購入したカルバリン砲(最大射程6300メートル)、セーカー砲(同3600メートル)などのヨーロッパ製の長距離砲も実戦に投入され、少なからぬ威力を発揮した。
 大坂の陣で秀頼たちが大砲の脅威にさらされたというのは知っていましたが、それがヨーロッパ製の長距離砲だというのは初めて知りました。
 集権化を支えた信長の軍事力の秘密を解くカギは、戦闘者集団である武士と生産者集団である百姓との身分と居住区の截然たる分離、すなわち兵農分離にある。
 信長は、尾張を統一したあと、清須、小牧山、岐阜、安土へと本城を移動させるたびに、家臣団に引っ越しを強制した。長年住み慣れた本領を捨てて、主君と運命を共有する軍団を目ざしたのだ。本拠地移転を進めながら兵農分離を促進し、同時に戦国時代最長といわれる三間半(6.3メートル)もの長槍や大量の鉄炮の配備をすすめて軍隊の精鋭化を図る。
信長は三間半という長槍を採用した。長槍は、主として突くのではなく、叩くものだった。敵の長槍隊と遭遇したときには、長ければ長いほど有利だった。鉄炮戦が本格化する前の戦争は、長槍隊が主力だった。長槍は長いほど重く、しなることから、統一的な操作が難しく、日常的に足軽たちに軍事訓練を科さないと、大規模な槍衾(やりぶすま)を組織的に編成することはできなかった。
信長は、長槍隊には銭で給料を支払い、生活を保障した。信長の軍事的成功は莫大な銭貸蓄積に支えられていた。信長は、「三間半の朱槍を五百本ばかり」用意し、斎藤道三を警戒させた。信長は、長さばかりか色もふくめて同じ規格の長槍を大量に準備し、足軽たちに装備した。
  近習と足軽隊に重きを置く戦術は、尾張時代の信長の特徴だった。千人に満たない規模の直属軍が、軍事的カリスマである信長の意思にもっとも忠実に従う軍団の中核を形成した。
信長や秀吉は、天下統一を進めながら、軍人として純化を遂げた武士団が高度な軍事力を独占するようにしていった。ところが、鉄炮足軽に対してその軍功を讃える軍忠状を与えた例はない。軍事的重要性の高まりに比例して足軽たちの政治的地位が向上したとは考えられない。
 信長は、足軽兵増強の一方で、一向一揆を初めとする大規模一揆の鎮圧には容赦なく鉄炮を大量投入した。数万人規模の死者を出すような凄惨な戦争は、鉄炮戦が一般化する前には、ありえなかった。
 軍事に専念する兵身分を誕生させるためには、家臣団に所替えを強制して城郭と本領を取り上げ、家臣団と彼らの父祖伝来の領地・良民との強い絆を否定することが前提となる。つまり、家臣団から自立性を奪うことが始まりなのだ。
 信長の家臣団には二つの特徴があった。第一は、商人的家臣の存在である。これによって信長は必要な物資の確保と莫大な銭貸を獲得した。そして、これが軍団の兵農分離を促進した。第二に、非嫡男や庶流家が家臣団に目立った。前田利家も嫡男ではない。
 これまで足利義昭政権は信長のカイライだとされてきたが、根本的に考え直す必要がある。義昭政権は、幕府機構を整備し、御料所を再興し、さらに京都の商業権益・地子銭等を掌握した。つまり、幕府としての実態を持っていたのだ。
 義昭の幕府と信長権力は、それぞれが独立的に存在していたが、光秀らの実力者が接着剤となり、一体となって政権が機能していたとみられる。
足利幕府って、信長政権の誕生とともに滅亡したって教わりましたよね。
 義昭からすれば、信長は幕府再興を実現した大恩人であっても、重臣にすぎなかった。
 信長は、京都五山禅院の住持の任命権を、義昭から奪取することができなかった。
安土城において、天下人信長の執務空間たる天主は、天皇を凌駕する為政者として可視的に表現され、安土城の中心軸に配置された。
 信長は、自らを将軍と天皇の権限を統合した存在であり、天から支配権を付託された絶対者として自己を位置づけ、神格化さえ試みた。信長が好んだ龍は、中国では皇帝の象徴だった。安土城の天主には、その内外に中国思想が凝縮されていた。
 このあと秀吉の分析が続きます。織田信長そして豊臣秀吉の果たした役割を改めて検証しています。そのために役立つ視点満載の知的刺激にみちた本です。
(2014年4月刊。860円+税)

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