弁護士会の読書

※本欄の記述はあくまで会員の個人的意見です。

2014年8月30日

筑紫君磐井と「磐井の乱」

日本史(古代史)

著者  柳沢 一男 、 出版  新泉社

 福岡県八女市には北部九州最大の前方後円墳である岩戸山古墳があります。
 この古墳は、6世紀の前葉に築造された。同時期の古墳としては、日本列島第四位の規模。
岩戸山古墳の特徴は、膨大な数の人物や動物、そして多種の器財を模した石製表飾(ひょうしょく)。これは石人石馬とも呼ばれる。
 そして、何より、この古墳をつくったのが、古墳時代最大の内戦といわれる「磐井(いわい)の乱」の当事者である筑紫君(ちくしのきみ)磐井の可能性が強いことで注目を集めている。
 磐井は、日本書紀や古事記にも登場する人物である。
 岩戸山古墳の石製表飾の石材は、ほとんどが阿蘇山から噴火した阿蘇溶結凝灰岩(阿蘇石)である。八女地方の近くにまで阿蘇山の噴火による溶岩が流れてきていたのですね。
 岩戸山古墳の石製表飾の最大の特徴は、種類と数、そしてサイズにある。その数は、収蔵されたものだけで100点をこえる。大胆なデザインとそれを実現した製作技量。そして靫や楯に加えられた多様な図形表現のアイデアは、現代の彫刻とくらべて遜色がない。
 胄をかぶった立像を推定すると、高さ2.5メートルもの立像となる。これは磐井ではないかと推定されているようです。その他の石像も2メートルほどの大型サイズである。
 岩戸山古墳の石製品は、精緻な表現と卓抜名アイデアが詰め込まれた造形物である。二体ある馬形は、当時の最上級の馬装で整えた飾り馬をほぼ実物大に表現しており、古墳時代の石像物の最高傑作。
 古墳時代最大の内戦であった「磐井の乱」は、事件後200年たった奈良時代になっても、語り継がれるべき重大な事件として記憶されつづけた。そこで、「日本書紀」には、詳細な記述がある。
 岩戸山古墳の墳丘を築造するだけでも、毎日300人を動員して、3年の月日が必要となる。磐井の勢力は、九州中北部の諸勢力のリーダーとして倭王権の百済支援を担いながら、他方、独自に高句麗、新羅・大加耶との交渉ルートをもち、また、西日本各地の諸勢力とも連携していた。王権の絶対的強化と他方勢力の直接支配を目ざす絶対王権にとって、このような磐井勢力の動向は見逃せない事態であったに違いない。
 「磐井の乱」を制圧した倭王権は、ミヤケ制と国造制を介して地方支配と中央集権化を推し進め、古代律令国家へと突き進んでいった。すなわち、「磐井の乱」は、倭国のおける古代国家形成への転換点であった。
 昔、朝鮮半島南部に「任那日本府」が設置されていたと教えられたように思いますが、今では否定されているそうです。
 それでも、朝鮮半島南部に倭系古墳があることは事実なので、百済からの要請のもとに倭王権唐派遣された九州北部勢力がまとまった倭人勢力としていたと推定される。
なーるほど、そうだったのですね。要するに、今のような国境はない時代ですから、日「韓」自由に行き来できていたというわけです。
 岩戸山古墳に久しぶりに行ってきました。皆さんも、ぜひ行ってみて下さい。
(2014年8月刊。1500円+税)

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