弁護士会の読書

※本欄の記述はあくまで会員の個人的意見です。

2014年5月10日

赤穂浪士と吉良邸討入り

日本史(江戸)


著者  谷口 眞子 、 出版  吉川弘文館

 私の誕生日が討入りの日(師走半ばの14日)と同じこともあって、赤穂浪士の討入りは縁深いという思いがあります。映画やテレビもよく見ましたし・・・。
 150頁足らずのブックレットですが、豊富な絵と写真によって、赤穂浪士の討入り事件の意義を考えさせてくれます。
 事件が起きたのは、元禄14年(1701年)3月14日のこと。関ヶ原の戦いから100年がたち、人々は平和に慣れていました。
 江戸城の松の廊下で殿様がいきなり刀をふりあげて斬りつけたのですから、ただごとではありません。捕まって、即日、切腹を命じられてしまいました。この原因は、結局のところ、今日に至るまで諸読あるものの、不明というのです。そして、切腹を命ぜられた赤穂藩の遺臣たちは翌年12月に討入りして、成功するのでした。事件のあと、1年9ヵ月もかかったこと、47人もの集団で討入ったことに、画期的な意義があります。
 そして、討入りに成功した翌年2月に浪士たちは切腹させられたのです。47人が討入りに入って、切腹させられたのは46人。残る1人(寺坂吉右衛門)は、どうしたのかも謎のまま。逃亡したというのもあれば、密命を帯びていたという説もあります。その身分は足軽だったようです。
 そして、47士のなかに上士(家老など、身分の高い侍)が少なかったのを浪士たちは恥ずかしく思っていたということも紹介されています。まあ、仇討ちから逃げ出したくなる気分も、私は理解できます・・・。
討入りの時点で吉良邸には150人いたが。100人ほどは抵抗していない。長屋内に閉じ込められていた。したがって、47人の赤穂浪士は40人ほどを相手すればよかった。だったら、討入り側の勝ちは当然ですよね。
 それにしても、吉良上野介の息子は、どうして助かったのでしょうか・・・。
 吉良側には、戦力になるものがほとんどいなかったし、討ち入りに備えて準備していたとは考えられず、真夜中の襲撃で、心理的に追いつめられたと思われる。
 赤穂浪士は、打ち入りは死刑に値する罪であると認識していた。通常の敵討ち(かたきうち)と認められるとは思っていなかった。いわば、真夜中に他人の邸宅に押し入って殺人を犯すというテロ行為だという自覚があった。だから、命が助かるとは思っていなかった。
斬罪と切腹とでは法的なあつかいが異なる。
 上野介の49日にあたる2月4日に浪士たちに切腹が言い渡された。異例に時間がかかったわけではない。
 赤穂浪士の討ち入り事件を再現して確認した気分になりました。
(2013年12月刊。2000円+税)

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