弁護士会の読書

※本欄の記述はあくまで会員の個人的意見です。

2014年2月13日

初日への手紙

社会


著者  井上 ひさし 、 出版  白水社

 作家の創作過程とは、かくも壮絶なものなのか・・・。読んでいて、何度となく、思わず息を呑みました。
 この本は東京の新国立劇場で公演された「東京裁判三部作」(「夢の裂け目」「夢の泪」「夢の痂」)の制作過程で、作者である著者から担当プロデューサーに送られてきたファックスを中心とするものです。私は残念ながら演劇をみていませんし、脚本もあらスジも知りません。そのうち読もうと思います。
 恒例の人間ドックに持ち込んだ本のうち、東京裁判について書かれたものがあり、それをたまたま読んでいましたので、内容の理解が早まりました。これはまったくの偶然でした。
 著者の人物設定は実に詳細である。土台となる登場人物がおおよそ決まったところで、次は物語、ドラマの展開に着手する。人物は「劇」の展開を背負って登場させる。
 これからの10日間が戯曲の生命が宿るとき。だから、あまり人に会わず、ただただ内側から知恵と力が湧くようにやっている。
 旅館にこもって書くときには、長い経験からあまり資料をもっていっては失敗する。そこでは、物語の発展に集中する。
話の展開をつめているとき、著者は盟友であり、「先生」と呼ぶ作曲家の宇野誠一郎と電話で2、3時間はなし、聞いてもらう。これは著者の戯曲制作の過程で必要な儀式の一つだ。
 ホンモノの東京裁判に登場した証人400人のなかに「日本紙芝居協会の会長」がいたのでした。信じられない気がしますが、著者はドラマの主人公として取り込むことにしたのです。そして、紙芝居に関する資料を猛烈に集め、作成しました。
 いま最後の仕上げに、昭和20年8月から1年間の朝日新聞をサーッと読んでいるところ・・・。
 私も、実は、同じようなことをしたことがあります。1968年6月に始まった東大闘争の1年間を小説にするため、この年の4月から翌年の3月までの1年間の朝日新聞縮刷版を図書館から借りてコピーし、読み通しました。
 著者は登場人物の小さな写真を三角形の人形につくり、机上に置き、人形を眺め、動かしながら物語の展開を考えていった。
 「ほんとうに切羽詰まった状況ですが・・・。いまは、この芝居を果たして成立するだろうかという不安と恐怖で、1字打つたびに、緊張のあまり吐きそうになっております」
 これは午前4時09分のFAXの文面です。
 著者は、構想段階で、多様かつ綿密なプロットをつくる。だた、プロデューサーとしては、いつ著者が戯曲本体の執筆を始めるのか、気が気ではなかった。
著者から午前4時にFAXが届くと、担当プロデューサーとしては、とにかく早く返信しなければいけない。相手は天才、しかもギリギリまで自分を追い込み、いわば普通でない状態になっている。いい加減なことは書けないし、執筆が順調にいくように配慮もしなければいけない。ほぼ24時間体制で対応する。
 部屋に閉じこもりきりの著者にとって、プロデューサーからのFAXは現場をのぞく鍵穴のようなもの。現場で感じたことは貴重な情報にもなる。ただ、その書きかたは非常に微妙で難しい。ストレートに書けばいいというものではないし、かといって伝わらなくては意味がない。
 著者の作品を担当したプロデューサーは基本的に自宅に帰れない。劇場近くに部屋を借りる。
 著者の遅筆は有名です。初日まで10日間(5日間しかないこともあった)の稽古しかできない、ギリギリのタイミングでの脱稿。それから、初日に向けてのスタッフ・キャストの死に物狂いの戦いが始まる。
 井上新作劇を上演するのは、井上作品に精通した百戦錬磨の優秀なスタッフ軍団にしかできない。そして、キャスト・スタッフを統括する演出家は、ごく限られてくる。
 帝国ホテル地下の寿司屋「なか田」の中トロ丼が著者の好物だったとのことです。私も一度、味わってみたいと思います。
 眠ることができれば、頭がよくなるのに・・・。がんばれ、集中せよと自分に声をかけながら、深夜の庭をうろうろ歩き回っているばかり。マクベスのように「眠りがほしい」と切なく祈る。
 今夜は思い切って薬をつかって寝よう。そして、明朝から、最後の勝負をかける。それでも打開できなければ、私財を投げうって自爆するしかない。いえ、死のうというのではなく、一切、家に閉じこもって、また最初のスタート台に立つ覚悟ということ・・・。
 まことにすさまじいばかりの格闘です。圧倒されてしまいました。いくら著者が天才といっても、これほど身を削る努力をしていたとは・・・。すごい本です。
 著者の戯曲創作のスゴさは人間業とは思えないもの。天才こそ努力家だという、まさに見本だ。膨大な資料を読み込み、年表など克明な資料をつくり、俳優にあわせて登場人物を考えて物語を構想し、綿密かつ大量のプロットを書き、ようやく戯曲本体を書き出しても、さらに推敲のうえに推敲を重ねる。
こんないい本をつくっていただいて、ただただ、ありがとうございます、としか言いようがありません。
(2013年9月刊。2800円+税)

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