弁護士会の読書

※本欄の記述はあくまで会員の個人的意見です。

2013年6月 2日

博徒と自由民権

日本史(明治)

著者  長谷川 昇 、 出版  平凡社ライブラリー

幕末から明治10年代にかけて博徒集団の動き、そして自由民権運動との結びつきを解明した本です。清水次郎長が一家を構えていたのは清水地方です。尾張と三河の違いが強調されています。
尾張は徳川家62万石が全域を支配していたのに対して、三川には8つの小藩そして、いくつもの飛地や天領や、さらには60余家に及ぶ旗本の知高地があった。先祖発祥の地として、飛地をもちたがっていたことによる。その結果、小藩、小知行地が乱立して、警察権力が弱体化した。次郎長は尾張藩の警察力の強大さに驚倒したといいます。
幕末の尾張藩は、「強力な武力」として博徒集団に着目し、それを利用しようとした。今後どのように展開していくのか予測しがたい倒幕出兵にあたって、可能なかぎり正規の藩兵の温存をはかり、まずは補充的に集めうる民兵を先鋒として利用しようとした。そして、そのとき博徒組織は、団結力、統制力、さらには戦闘力と戦闘経験において、ただちに実践につかえる武力集団であることに着目した。前科を黙認し、士族採用を餌として尾張藩の勤王実績づくりのための先鋒に転用しようとしたのであった。
 明治13年6月、安政年間以来、東海道の博徒集団を二分して前代未聞の大喧嘩を重ね、もつれにもつれた平井一家と清水一家の手打ち式が浜松の料亭「鳥屋」で開かれた。この日、浜松に繰り込んだ双方の関係者は1000人。清水一家は、次郎長を先頭に、大政以下の主だった乾分(子分)などが参集した。
 その後、自由民権運動が発展していきます。当時の博徒の多くが、「半農半博」であり、中貧農だった。そして、博徒は、耕作農民であると同時に博徒集団という特殊な「党派」に所属するという特殊性をもった存在であった。
 明治17年、集中的に各地で蜂起が続いた。困民党・借金等に類する反体制的激化事件に博徒はさまざまなからみあいをもって関連していったが、それには必然性があった。親分が検挙されて一家は壊滅し、費場所に賭場が立てられず、寺銭に寄食する糧道を絶たれ、検挙の網を逃れて他府県に遁走せねばならないという実情のもと、反体制運動の組織者となっていた。このことを過小評価すべきではない。
自由民権運動と代言人とのかかわりも興味深いものがありますが、博徒も、そのなかで大きな役割を占めていたと言うのです。大きく目を開かされました。
 本書の冒頭に、清水一家とのあいだの血なまぐさい出入りの状況が生々しく描かれています。次郎長映画をみている気分になりましたが、あれって、本当にあっていたことなんですね・・・。
(1995年4月刊。1068円+税)

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