弁護士会の読書

※本欄の記述はあくまで会員の個人的意見です。

2012年11月27日

コムソモリスク第二収容所

ロシア

著者   富田 武 、 出版   東洋書店 

 戦後のシベリア抑留の実像に迫ったブックレットです。
 シベリア抑留については、いろんな研究書や体験記が公刊されていますし、映像としても見られるようになりました。このブックレットは、そこに欠けている視点があるのではないかと指摘していて、なるほどと思いました。
 収容所の食事がいかに粗末だったかがいつも語られている。しかし、1946年から47年にかけては、ソ連でも広範な飢饉を体験していた。一般の食事も配給制下で貧弱だった。むしろ、捕虜から大量の死者を出せば国際的威信にかかわるため、地方当局は必至に食糧確保策をとっていたのも事実だった。
 コムソモリスク収容所のあったアムール流域の工業都市の人口は1945年8月に20万人。冬期の寒さは厳しく、12月に入ると零下30度、1~2月の厳冬期には零下40度を下回ることもある。
 1945年8月、ソ連最高機関たる国家防衛委員会は、日本軍捕虜を50万人選別することを決定した。このとき、ソ連はすでに240万人ものドイツ人捕虜を領内に留置・移送して、生産や都市の復興の労働力として使役していた。
 日本の関東軍首脳は、ソ連に対して、対米英戦争和平の仲介を依頼すべく近藤文麿を派遣するための要綱に「賠償として、一部の労力を提供することに同意する」としていた。要するに、関東軍は日本兵の労務提供を申し出ていたというのです。
 労働力としての日本兵捕虜について、ソ連内の各地方州、共和国から追加要請があっていた。
 日本人捕虜の調査対象30万人の19.5%は体力が衰え、6%が病気になった。1945年から46年に冬に酷寒と飢え、重労働で多数の死者が出た。全抑留期間の死亡者6万人の80%にのぼった。
 1946年4月に、極東・シベリアの捕虜5万人を中央アジアに移送する命令が出た。
 同年5月、ソ連領内の病弱な捕虜2万人を北朝鮮内の健康な捕虜2万2千人と交換するという命令が出された。
捕虜収容所の維持費が捕虜による生産高を上回る赤字が続き、黒字になるのはようやく1949年であった。
日本人捕虜収容所では、最初から反ファシスト委員会が存在したのではない。1947年後半から、反動的な将校団の影響力が著しく低下した。将校は労働力が免除され、それでいて給食は質量とも兵士以上だった。
 1950年4月、日本人捕虜51万人の日本への送還が完了した。捕虜総数は64万人(日本人61万人)、うち死者6万2千人だった。最初の冬の半年間で4万6千人が死亡した。
 最後に、ロシア政府はシベリア抑留関連文書を日本政府に引き渡す義務があること、日本政府と外務省は、ロシア政府に対して堂々と要求すべきだと著者は強調しています。まったく同感です。わずか60頁あまりの薄いブックレットですが、シベリア抑留の実情を知るうえで、欠かせないものと思いました。
(2012年10月刊。800円+税)

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